姫と呼ばないで

 


朱栖達が引き上げた後、カカシはつい先刻別れた時の不機嫌さなど忘れたかのように微笑んだ。
「…偶然とはいえ、いい場所で諍いを起こしてくれました。アナタの一番得意な術って水遁ですものね」
その笑みを見て、イルカは確信する。
やはり、あの水蛇はワザとだった。この河原に姿を見せたのも偶然ではあるまい。
イルカがあの中忍達に絡まれたのに気づき、追ってきたのだろう。あんなに怒っていたのに、助けに来てくれたのだ。
それでも、イルカが朱栖と剣を交えている間は、手出しをせず見守っていた。中忍達が、集団私刑に走るまでは。
助けるだけなら、あんな派手な真似はしなくても良かったはずなのに、敢えて彼がそれをした理由はひとつ。
―――全て、イルカの為だ。
わざとあんな派手な術で『喧嘩』の仲裁をし、イルカが今使える術を彼らに見せつける。
刀しか振れないただの侍、とイルカを侮っていた輩も、イルカを見る目が否応も無く変わるだろう。
イルカは戸惑いながら口ごもる。
「………一番、と言うか…今はあれしか出来ないのですが………」
「……いいんですよ。…忍の術など何も使えまいと思い込んでいた侍が、中忍並みの術をやってのけたんですから………そういうのって、衝撃度が強いでしょ? 実に効果的でした。ふふ、奴ら、驚いてましたよ〜」
そう言って笑ってから、カカシは少し申しわけなさそうな顔でイルカを見る。
「………オレは、アナタならきっと、水陣壁で危険を回避してくれるだろうと信じて、あの術を使いましたが………賭けだったことは認めます。……すみませんでしたね、いきなりあんな事をして。…驚いたでしょう?」
修行の成果を信じて『賭け』をしたというカカシの期待を、どうやら裏切らないで済んだらしい。イルカは首を振った。
「驚かなかったと言えば嘘になりますが。………この河原は、水遁の術を教えてもらい、何度も練習した場所です。…条件反射っていうのでしょうか。気づいたら、印を結んでいて………」
「…やっぱりアナタ、素質がありますね。…反射的にそういう対処が出来るっていうのは」
カカシはいつも通りの飄々とした顔で、踵を返す。
「じゃ、帰りましょうかね」
イルカはすぐにその後を追わなかった。河原にじっと立ちつくしたまま、カカシの後姿を見つめている。
イルカが動かない事に気づいたカカシは、訝しげに振り返った。
「どうしました? どこか、痛めましたか」
イルカは静かに首を振って否定する。
「………あの、カカシ……上忍」
「……………うん?」
イルカは一呼吸置いてから、思い切って尋ねた。
「もう、怒っていらっしゃらないのですか?」
「…………………………」
カカシの肩が揺れ、気まずそうに彼は視線を外した。
「…えっと………そっか。………さっきは悪かったですね。……あんな言い方して。…や、別に怒ったわけじゃ………」
嘘だ、とイルカは思った。
いつも冷静なカカシが、あの一瞬感情を爆発させた。
その引鉄を引いたのは、自分の不用意な一言だ。
「でも、ご不快だった。………そうでしょう」
カカシは肩を竦める。
「……………すみませんね、修行が足りませんで。いや、実は賭けのことでアスマとちょっと揉めまして。往生際が悪くてねえ、あのクマ。それで機嫌が悪かったんですよ。…あれしきでキレるなんて、上忍失格と申しますか………」
おどけた物言いで、カカシはお茶を濁そうとしたが、イルカは誤魔化されなかった。
「違うでしょう。貴方は、俺の態度に腹を立てたんです。………貴方は謝るな、と仰いましたが、やはり謝るのは俺でしょう。………俺が此処へ来てからずっと、貴方は『姫』と呼ぶな、と仰っていたのに、俺は何度もそう呼んでしまった。…申し訳、ありません」
カカシの視線がゆっくりと戻される。
その視線を受けて、イルカは続けた。
「………習慣が抜けなかっただけじゃない。貴方が立派な男性で、俺なんかが護るなどと言うことすらおこがましい、凄腕の忍者で―――というのがわかっても、それでも………貴方は、俺の大切な、護ると誓った『姫』だったんです。………『姫』というのは、俺の心を捧げる相手の象徴というか…表現というか……とにかく、そういう意味を持っていて………ええと、つまり………ですね………」
イルカは赤くなりながらも、きっぱりと告げた。
「俺は貴方が好きです。………貴方の傍にいたい」
好きだと、カカシに告げたのは初めてだった。
いや、『好きだ』という直截な言葉など吐かなくても、態度で示していればそれで良いのだと思っていた。それが武士の気風でもあったから。
少なくとも、今まではイルカもそう思っていたのだ。
だが、ここで言わなくてはいけない。
有耶無耶にしてはいけない事だ。カカシと、これからも一緒にいたいならば。
「…一年前、城から出奔した時。他に身の処し方が無かったわけではない。…でも、俺は貴方の傍にいたかった。…離れたくなかった。……だから、無理を言ってついてきました。…それだけでもご迷惑な話なのに、更に俺の気持ちを告げるなど、怖くて出来なくて……『姫』に今まで通りお仕えする、忠誠を捧げる、という形をとることで、お傍にいる言い訳にしていたのかもしれません。…でも、これだけは。………俺が貴方の傍にいたいのは、家来としての忠義ではなく、貴方個人が好きだからなんです」
カカシは自分の頬が火照り、眼が潤んでいくのに気づいて狼狽した。
「………そ、そんな………事………今更…………」
「………本当ですね。すみません」
「謝るなっ! バカッ! ………大馬鹿!」
カカシが泣きそうになっているのに気づいたイルカも狼狽する。
「あ………あの、カカ………」
カカシはくるんとイルカに背を向け、自棄になったように怒鳴った。
「―――ずっと『恋人』のつもりだったオレがバカみたいじゃないですかっ!」
「………………………ッ…」
盛大な『告白返し』に、イルカも真っ赤になった。
ああ、そういえば彼は、最初の日になんと言っていた………?
カカシを想う女がいたら、イルカを殺しかねないほど嫉妬するような関係。そういうつもりでイルカを里に連れてきたと、そう言ったではないか。
自分はいったい、彼の言葉をどう聞いていたのだろう。
「………本当に、バカですね。俺は………」
カカシさん、とイルカは呼んだ。
姫、ではなく、上忍、でもなく。
「……………イル…………」
その日、初めてイルカは自分から手を伸ばしてカカシを抱き寄せ、唇を重ねた。



 





 

イルカが木ノ葉の里にやってきてから、丸二年。三回目の秋が訪れようとしていた。
山の中、里の者にしか判別できない目印を確認して立ち止まる。
(………ここらだな)
イルカは軽く体内でチャクラを練りながら印を結び、右手の刀印を宙にかざして『符牒』を唱えた。
「野に吹く風の行方を知るもの、天にかかる虹の行方を知るもの、何処にもあらず。流れゆく摂理を押しとどめんとするもの、この里の者にあらず。…開門!」
ゆら、と目の前の空間が揺らいだ。
「は〜い、海野イルカさん、おかえりなさーい!」
可愛い声が出迎えてくれ、イルカは思わず口元を綻ばせた。
「ただいま、カノエさん。…お役目、ご苦労様です」
「うふふ〜、嬉しいですぅ。そんな風に労ってくれる人、少ないから〜。イルカさんは、優しいですねえ。カノエ、イルカさん好きですぅ」
「ありがとう」
相手は眼に見えぬ妖しの者だが、声は愛らしい少女だ。悪い気はしない。
「好きだから、通過代はマケておいてあげますね〜。…本当はイルカさんのチャクラ美味しいから、もっともらっちゃいたいけどぉ」
「………それは、どうも」
結構遠出だったので、頑丈が取り柄のイルカも疲れていた。これ以上体力を奪われるのは勘弁して欲しい。
過日カカシが言った通り、やはり彼女達は、『益』があるから門番となってくれていたのだ。木ノ葉への侵入者を防ぐ代わり、『門』を通過する忍者達からその度毎にほんの少し、チャクラエネルギーを吸い取るらしい。
先代の門番、カノエの母親タツミは、そういう仕組みになっていることをおくびにも出さなかった。外から任務を終えて帰還した忍者達は、門を潜った途端に増す疲労感を自覚しても、里に戻れた安心感から疲れが出たのだと思い込んでいたのだが。
門番を引き継いだカノエは、声の印象通りまだ幼いらしく、時々ポロリと無邪気に『通過代』のことを漏らすので、今では大抵の者がこの門の仕組みについて知っている。
だが、それを知って、特に騒ぐ者もいなかった。
妖しの領域の者が、無条件で門番などというものをやってくれているという方が怖い。
彼女らも心得ていて、任務に向かう忍者から体力を奪うような真似はしないとくれば、命を取られるわけではなし、帰還時に少しチャクラを吸われる程度で『礼』になるなら、その方が納得も安心も出来るというものである。妖し相手に借りを作るほど怖いものも無い。
「でもイルカさんが外に出るって、珍しいですね〜。お仕事ですか〜あ?」
「ええ。今度、入塾する子供達の為に、入り用な物を調達しにね。今ある備品はもう古いので。…やはり品物はこの眼で確かめたいし、たまには外の様子も見たいから」
ふぅん、とカノエは曖昧に相槌を打つ。イルカの言葉の意味が全部はよくわからないのだろう。
「あ〜、そうだ。カカシさんも、昨日帰ってきましたよぉ。バテバテだったみたいだから、通過代もちょっぴりにしてあげたの。だって、イルカさんのお友達ですもんね」
イルカの表情がぱっと明るくなる。
「そうですか、ありがとう。……カノエさんも、優しいですね」
うふうふ、と少女は嬉しそうに笑う。
「……ね、ね、また時々おしゃべりしに来てくださいね〜? カノエ、退屈なんだもの」
「ええ。また来ますよ。……じゃ、行きます」
「はぁ〜い! またね〜」
イルカは重い荷物を抱え直し、里の中に向かって歩き出した。
さっきまで重かった足取りが軽くなっているのに気づいたイルカは、己の現金さに苦笑した。門番カノエから聞いた、カカシの帰還情報の所為だ。
彼が帰ってきている。
今回の任務は二週間ほどだったが、向かった先がキナ臭い土地だったので心配していたのだ。
カノエは、酷い怪我をしているような忍者からは通過代を取らない。彼女が『バテバテ』という程度なら、カカシに怪我は無いはずだ。
(………強いクセに、意外と体力無いからなあ……あの人。精のつくもの、食べさせなきゃ)
任務から戻ったカカシは、イルカの留守を知って落胆しただろう。疲れているのに、風呂や食事の支度も自分でやらなくてはいけなくて。
書置きはきちんとしてきたが、きっとご機嫌斜めに違いない。
(…お土産程度じゃ、機嫌よくはならんだろーなあ……)
荷物を置くだけのつもりで寄った塾で、塾長につかまり、子供達にまとわりつかれ、『外』の話を散々させられたイルカの帰宅は、予定よりも随分と遅れてしまった。
暗くなった道を急いで戻る。
カカシの家から灯りがもれているのを見て、イルカはホッと安堵した。
「…ただいま戻りました。すみません、遅くなって………」
返事が無い。
広い家だ。奥の方にいたら、玄関の声など聞こえないかもしれない。
イルカは厨や風呂場を覗いてから、カカシの居室に向かう。
「……カカシさん…? イルカです。ただいま戻りました」
戸の外側から声を掛けたが、やはり返事は無かった。
そっと、戸を引き開ける。
カカシは、眠っていた。行灯の明かりがつけっ放しで、脇に読んでいたらしい本が投げ出されている。
「………カカシさん。…何もかけずに昼寝をしたら、風邪を引きますよ」
そっと肩に手を掛けて揺り起こすと、カカシはぼんやりと眼を開けた。
「……………ん〜………ああ、寝ちゃったのか………あれ? お帰りなさい。いつ帰ってきたんです?」
「今です。……ただ今、戻りました。カカシさんも、お帰りなさい。ご無事で何よりです。お疲れ様でした」
イルカが帰還の挨拶と、カカシへの労いで丁寧に頭を下げると、カカシもぴょこんと起き上がって頭を下げた。
「イルカ先生こそ、お疲れ様。…塾の他の先生に聞きましたよ。備品の調達って、結構大変なんだって」
イルカが教師として塾に就任してから、生徒や他の人々は彼をイルカ先生、と呼ぶようになった。カカシはその響きが気に入り、一緒になってその呼称を使う。
最初は面食らったイルカだったが、カカシが嬉しそうにそう呼ぶので、今ではすっかり慣れてしまった。
「細かいものも多いですからね。結構重くなってしまうし。………でも、一回で済みましたから」
カカシは頭を屈め、イルカの顔を下から覗き込む。
「………じゃあ、すっごく疲れてる? お腹とか空いちゃって、ガマン出来ない?」
どうやら、イルカが懸念していたほどカカシの機嫌は悪くは無いらしい。
イルカは胸を撫で下ろしながら首を振った。
「…いや、カノエちゃんが加減してくれましたしね。…貴方の顔を見たら、疲れなんて吹き飛んだ気がします」
ふふふっとカカシは笑った。
「………オレはアナタの顔を見たら、欲情しました」
ごふっとイルカはむせた。この、駆け引き無しの直球にはいつまで経っても慣れない。
カカシは膝でにじり寄り、イルカの手に自分の手を重ね、耳元に唇を寄せる。
「ね………しません?」
「……………………ここで?」
「…嫌、ですか?」
「まだ旅装も解いていないんですが。…本当に、今家に上がったばかりで。…あまり綺麗じゃないんですよ、俺」
「…嫌?」
重ねて問われて、イルカは苦笑して首を振った。
「嫌じゃないです」
カカシは嬉しそうにイルカの首に腕を巻きつけ、接吻をねだる。
そうなるともう、イルカも拒否出来ない。むしろ、自分の欲望だけで突っ走りそうになるのを抑制するのに苦労するくらいだ。
誤って倒す前に、と行灯の火を消し、イルカはゆっくりとカカシを畳の上に押し倒す。
障子の隙間から十六夜の月が綺麗に輝いて見え、室内を薄っすらと照らし出していた。
月の光に青白く浮かび上がるカカシの白い肌に、イルカは眩暈を起こしそうなほど魅せられる。
自分と同じ男なのに、異性に惹きつけられるような感覚をカカシに覚えてしまう。
イルカ先生、と吐息混じりに囁かれてイルカの身体に甘い痺れが走り。
姫、と呼びかけたくなるのを寸前でイルカは堪え、カカシさん、と返してその身体を抱きしめる。カカシが嫌がるなら、二度と声に出して彼をそう呼ぶまいとイルカは固く思い決めたのだ。
だが、イルカの中では、変わらずカカシが『姫』だった。
心を捧げる、唯一の対象。
「イルカ先生………」
その声に、イルカは最初に自分を『イルカ先生』と呼んだ子供のことを思い出した。



 

やんちゃで、元気の塊のような男の子。
その子供が、イルカの袴姿と二本差しの刀に興味を持ってまとわりついてきたのだ。
子供は彼が忍ではないと知るや、早速拙(つたな)い忍術で悪戯を仕掛けようとしたのだが、イルカに簡単に返り討ちにされてしまった。
以来、忍塾で読み書き、基本的な算術、剣術を教えるようになったイルカを尊敬の眼差しで『先生』と呼ぶようになったのである。
その子は、大きな眼で不思議そうにイルカを見上げてきた。
「なあ先生。イルカ先生って、お侍さんなんだろー? 前はデッカイお城にいたんだろ? どうして隠れ里(ここ)にいるんだってばよ?」
イルカは子供の頭を撫でながら、「そうだなあ」と小首を傾げた。
「………やってみりゃ意外に『先生』ってのが性に合ってたからな。お前みたいのがいるから、やりがいもあるし。…それに………」
「それに?」
イルカは微笑んで空を見上げる。
「ここには俺の大切なものが在るから…かな?」



 

「先生ってば。…何ですか〜思い出し笑いなんかして。オレとしている時に酷いなあ」
イルカがつい浮かべた笑みを、カカシは目敏く見つけて頬を膨らませる。
「…すみません。でも、全く別のことを考えていたわけじゃないんですよ?」
「何ですか? それ」
訝しげに眉を寄せるカカシの頬を、イルカは撫でた。
「貴方が俺の腕の中にいる時に、貴方以外のことを考えるわけがないと言っております」
「………オレ、のこと?」
そうです、とイルカは頷く。
「思い出したんですよ。……いや、忘れていたわけではありませんが」
ゆっくりと肌の上を滑るイルカの手に、カカシの声は上擦る。
「……何、を?」
「俺がここに在る、理由です」
カカシは暗闇の中で一瞬、眼を見開き―――そして、微笑んだ。
「……天に誓った…から…?」
それだけではないと、カカシは知っている。
だがイルカの口から、言わせたい。
その声で、聞きたい。
そして、眼を閉じたカカシの耳に、彼が望む通りの言葉が囁かれた。
 

 



 

最初はね、
「姫って呼ばないでくださいよ〜、も〜v」
「あ、すみません、姫!」
「また言ったな〜。このぉvお茶目さんっ」
………みたいなイチャイチャバカップルのりで終わらせようと思って書き始めたのに、何か途中で方向が狂いました。
お侍イルカって、結構難しかったです………TT

 

この8話目のラスト部分ですが、WEB連載当時のものではなく、同人誌掲載Verに直しました。

2006/5/24〜10/8(WEB連載)
(同人誌『姫と呼ばないで』2007/2/12発行)

 

 

BACK