戦うDaphne−4
「おはようございます……」 ああ、おはよう、と応えかけたイルカの同僚は思わず彼の顔をまじまじと見直す。 「……どうしたんだ? そのひでえツラは」 イルカは自分の顔をぴたぴた、と叩いて笑ってみせる。 「いや、なんでもないですよ。…少し寝不足なだけで」 「何だア? 美人のカミさんが寝かせてくれなかったのかあ?」 同僚の羨望も込められたからかいにもイルカは真面目に首を振る。 「ならいいんですけどねえ……実はここ2、3日息子の夜泣きが…ひどくて…」 うわ、と同僚は気の毒そうな顔になる。 彼は子供の泣き声が苦手だった。 逃げられない場所で延々他人の子供のヒステリックな泣き声を聞かされた時は、思わず子 供の首をきゅっと絞めて大人しくさせてやりたくなったくらいだ。実際はじっと辛抱して いただけだったが。 「そ…そりゃあ可哀想に……」 「ですよね。あんなに泣いたんじゃチドリも苦しいだろうと思うと可哀想で…」 いや、俺は眠れないお前が可哀想だと思ったんだが―――と同僚は思ったが、口には出さ ないでおいた。 「今までは大人しく眠ってたんですけどね…夜も。……どうやらそういう時期らしいんで すが……」 その会話を聞き取った少し年配の女性教師が振り返る。 「うみの君の子、何ヶ月だっけ?」 「…そろそろ六ヶ月です」 うんうん、と彼女は頷いた。 「そうね、夜泣きをする頃だわ。仕方ないわね。成長過程だと思って切り抜けるしかない わ。…でも、可愛い時期でしょう。よく笑うようになるだろうし」 イルカはにこにこして頷いた。 「ええもうそりゃあ可愛いですよ。親バカと言われようがなんだろうが世界一可愛く見え ます」 あっはは、と彼女は笑った。 「そうでなきゃ。親が可愛いと言わないでどうするのよ。あー、赤ちゃんの写真無いの? 見たいなあ」 イルカは少し恥ずかしそうに戸惑った様子を見せたが、彼女が更に促すとようやく手帳に 挟んでいた写真を一枚取り出した。 「ふふふ、やっぱり持ってたんじゃない。どれどれ? ……うっわ、可愛いわねー! う みの君、この子お世辞抜きで可愛いわあ。 いいわねえ、抱っこしたいわ」 「あ…どうも…」 イルカは照れたように赤くなると、そそくさと写真をしまう。 「う〜ん、うみの君がお父さんっていうのもまだ信じられないわねえ。すごく唐突に結婚 しちゃったでしょー、キミ。何人の女の子が泣いたやら」 「やだな、からかわないで下さいよ。俺が結婚しようが子供が出来ようが、気にする女の 子なんかいませんよ」 「これだわ……」 女性教師はため息をつく。 「こういうニブい男が周りの秋波に気づかないで見合い結婚とかしちゃうんでしょーね」 「俺、見合いじゃないですよ?」 きょとんとするイルカの背をどん、と彼女は叩いて笑った。 「どっちでも同じよ! ま、頑張りなさい! 新米パパ!」 イルカはその勢いで傾ぎながら自分の使命を思い出す。 (―――ああ、そうだ…託児所探さなきゃ……) イルカの家には小さな庭がある。生垣で囲まれ、外からは見えにくい。 隣接する両隣の家が存在せず、『お隣』の家は道と小さな竹薮の向こう側。 野中の一軒家というわけではなかったが、環境的には静かな佇まいであった。 その庭の沈丁花の前に、日向ぼっこにちょうどいいベンチがある。イルカがカカシの為に 拵えてくれたものだ。 カカシはチドリを膝に抱いてそこに腰掛け、イルカと同じく寝不足の顔を優しい日光に晒 していた。咲き始めた沈丁花の香りが鼻孔をくすぐる。 「チー君はあ、なーんで夕べもあんなに泣いたんですか〜…」 チドリは夕べの大騒ぎなど知らぬ顔。カカシが遊んでやると機嫌よく笑う。 「…おかーさん、眠いでーす……でも今寝るわけには…いかないし…」 イルカと相談した結果、昼間チドリをうんと遊ばせ、昼寝の時間を削れば夜寝てくれるの ではないかという事になったのだ。 「任務じゃ2、3日寝ない事なんてザラだったのに……なーんでこんなに眠いのかなあ…」 カカシは先刻の電話を思い出す。 紅からだった。 アカデミーで、目の下に隠しようの無いクマを拵えているイルカを見かけて、心配になっ たのだと言う。 カカシは彼の寝不足は子供の夜泣きが原因だと言い、ついでに今度自分が教官に任命され た件について一部始終を紅に話した。 『…あんた、その教官役が嫌なわけ?』 紅はため息混じりにそう言った。 『……いや…オレは任務自体が嫌なわけじゃないよ。…チドリと離れている時間が長くな るのが…嫌だな、と思っているだけで』 カカシの返答に、紅が微かに笑った。 『結局、嫌だと言う感情はあるわけじゃない。…チドリちゃんがいきなり夜泣き始めたの って、あんたの所為かもよ? あんたの嫌がっている気持ちが伝染してるんだわ』 カカシは息子を軽く揺すって、その顔を覗き込む。 「…そーなの? チドリはオレの所為で泣くの?」 チドリはまるで返事のようにその頭と顔を母親の胸にぐりぐりと押し付けてきた。 「……オレは……」 カカシは泣きたくなりながらその柔らかい髪を撫でた。 この愛しい存在と数時間でも離れているのが辛いのだ。 「オレがこういう気持ちでいるのがいけないのかなあ……」 その時、生垣の向こう側に人の気配を察したカカシは咄嗟に息子を抱き締めて身構える。 遠慮がちに顔を覗かせたのは、今度カカシの『生徒』になる少年だった。 「サスケ……」 カカシはほっと肩から力を抜いて、再びベンチに腰掛ける。 「どうしたんだ…?」 サスケが心配そうに尋ねる。 「あんた…顔色が悪いみたいだ」 「ああ…大した事ないよ。…ちょっとね、子育てしてると睡眠不足の時もあるの。…サス ケこそ、どうしたんだ? オレに用?」 サスケは黙って生垣の際で佇んでいる。 カカシは彼を手招いた。 「とにかく、こっちに入っておいで。そんな所に立っていられたんじゃ落ち着かない。… 何、今日休み?」 サスケはカカシの手招きに応じて庭の中に入って来た。 「……今日は…環先生に指名の任務が入ったから…オレ達は自主トレだ」 ふうん、とカカシは不機嫌そうに相槌をうった。 「そーなんだ。教官でも本人に任務って入っちゃうんだー…」 カカシは火影からS、Aランクの任務を免除されての教官役就任だが、この分では『今回 は例外』とか言って通常任務も入りかねないな、と憂鬱になる。 カカシの場合、『通常任務』とは常に高ランクの依頼であり、1日では終わらないケースが 圧倒的に多いのだ。 「……滅多にないけど。今回は、依頼人が環先生じゃなきゃ嫌だとゴネたんで仕方なく、 だっていう話。金払いがいい依頼人だから、ご機嫌損ねたくないんじゃないか? 里とし ても」 「まー…環ならそう言う事もあるわなー……」 カカシ自身、その腕の確かさでよく指名を受けた。 Dランクの使い走りのような任務しか出来ない子供の下忍と、お得意様の意向を量りにか ければ、言うまでも無く優先順位は決まるだろう。 「んで、サスケの自主トレは終わったの? オレの指導は来週からでしょ」 サスケはカカシの座っているベンチの側まで来て、じっと見下ろす。 彼女の膝の上で赤ん坊がサスケの動きを追って視線を動かした。 サスケは、自分を見上げている赤ん坊のふわふわした髪にそっと指を伸ばす。 柔らかなその感触に、サスケは目を細める。 「…また少し大きくなったな」 「チドリ? うん、毎日少しずつね…赤ん坊なんてあっという間に大きくなるって…皆が 言うんだよね。…こんな風にオレの膝で大人しく抱っこされているのなんて、後どれくら いなんだろうね…」 カカシはサスケの視線を感じて顔を上げた。 すぐ脇に立つ少年は真面目な眼で彼女を見下ろしている。 まだ幼さが残る輪郭ながら端正な面立ちに黒い眼と黒い髪。チドリも大きくなったらこん な少年になるのかもしれないな、とカカシは思う。 紅の話に拠れば、彼はまだアカデミーの頃から周りの女の子に騒がれていたと言う。 この容姿に、周囲から浮いて見えるほどの実技の優秀さ。 おそらく、後何年かしたら恐ろしく強い、魅力的な青年になるだろう。 「で? まだ聞いてないよ。オレに何か用があるんでしょ? まさかサクラじゃあるまい し、サスケがチドリの顔見に来たとも思えないけど」 サスケは彼女の白い顔を見つめた。 写輪眼があるはずの左眼はまだ閉ざされたまま。 右の碧い眼がサスケを見つめ返している。 「子供じゃない。…あんたの顔を見に来たんだ」 カカシの膝で無邪気にサスケを見上げる赤ん坊が生まれた、あの日。 カカシが産気づいた事を知らせにイルカの元に走ったあの時に。 サスケは彼女に対する自分の恋心を自覚した。 そして、その想いは恐ろしく一方的で叶う筈も無い恋だと言う事も彼にはわかっていた。 彼女には夫も子供もいて、女性として今とても幸福なのだ。 十以上年下の『子供』なぞ、彼女が『男』として認めてくれるわけがない。 わかってはいるのだ。 でも、それでも―――― 「オレの顔?」 うん、とサスケは頷く。 「『カカシ先生』の弟子になる前に、芥子さんに逢いたかったんだ。…それだけ」 カカシは不可解そうに少年を見て首を傾げる。 「サスケ…?」 忍としての彼女に惹かれたのか、女としての彼女に惹かれたのか。 自分自身の気持ちすら、まだ思春期に差し掛かったばかりの少年にはわからなかった。 だが、『想う』事は自由だ。自由なはずだ、と彼は唇を噛む。 「………オレは、強い忍になる」 唐突な少年の言葉に、カカシは真面目に頷いて見せた。 「…お前なら、なれる。……常に己を磨こう、高めようと言う気持ちがお前にあるのなら」 サスケは微笑んだ。 普段仏頂面ばかりのこの少年の笑みは、意外なほど可愛く、また魅力的だった。 いつも笑っていればいいのに、などとカカシが思った時――― ふいに少年は彼女の方に屈み込んだ。 「―――………っ!!」 カカシの頭の中は一瞬真っ白になった。 沈丁花の香りだけが一段と濃くなったような気がする。 ―――今、この子は何をした……? サスケのあまりな不意打ちに、カカシは茫然となってしまった。 その彼女の様子に、サスケは更に微笑む。 「………いつか、あんたに認めてもらえるような、強い男になる。……写輪眼を使いこな し、里一番の瞳術使いになって、そして―――…」 そこまで言うと、サスケの笑みは少し切なそうなものになった。 「……………」 その微かな小さな声は、自分の行動に対する謝罪だったのか。 彼女の耳に、その声は意味を持つものとして届かなかった。 サスケは踵を返し、ことさらゆっくりと庭から出て行った。 後に残されたカカシはまだ茫然としている。 唇に、少年の唇の感触が残っていた。 「………えっとぉ……」 なんだか今、『告白』されたような気がする。 「……あの…マセガキ………あああ、イルカ先生にしか許した事の無い唇を〜〜〜〜っ…」 「アー…ぅ?」 カカシはチドリを見下ろした。 「……チー君、今の見てた?」 「う?」 イルカと同じ黒い大きな瞳がきょろんとカカシを見上げている。 「…………これって浮気…じゃない…よな…? そ、そう、事故だ、事故。……ああもう、 アタマ痛い…ねー、チドリ〜…今の、お父さんにはナイショね〜?」 チドリは母親に話し掛けられているのが嬉しいらしく、手足をバタつかせた。 カカシは指でこめかみをおさえ、ため息をつく。 「……それにしても、赤ん坊を抱いている人妻に無断でキスする奴がいるか、普通…」 男が女にキスする理由など決まっている。 たとえ『男』が少年で『女』が夫も子もある人妻だとしても。 「……あの子、マジ…? まさかね……」 思春期にありがちな錯覚。気の迷い。…―――だと思いたい。 いや、でなければ困る。 はあ、とカカシはまたため息を一つ。 「…ウチハって…変な奴多いな…やっぱ……」 前途多難。 果たして本当に自分に教官が務まるのか―――大いに不安になるカカシ。 いやいや、ここで尻の青いガキなんぞに翻弄されてたまるか、とググっと拳を握り込む。 「…おかーさん、負けない……っ!!」 カカシの膝で、チドリがあーふ、とあくびした。 そして両親の努力も虚しく、チドリの夜泣きが収まる事は当分無かったのであった――― |
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タイトルの『daphne』は沈丁花のことですね。春を告げる香りの花です。 そして、ギリシア神話の妖精ですね。アポロンに迫られて月桂樹に姿を変えたとかいう。 ………カカシがダフネって………無理がある……… 2003/2/15〜3/3(完結) |