お誕生狂想曲−2  〜  イルカの七転び八起き 〜

 

イルカは全速力で火影邸に向かっていた。
自分はちゃんと走っているのだろうか。
まるで夢の中で走っている時のように、きちんと足が地に着いている気がしない。
先刻授業中に紅が顔を出し、この『大事』を伝えてくれた。
「ここはいいから、早く行きなさい」
その言葉に深く頭を下げつつ、教師となって初めて私情で授業を中断したイルカは教室を
飛び出したのである。
(カカシさんっ!! 頑張ってくださーい!!)
イルカは走りながら心の中で何度も叫んでいた。
イルカとしては出来る事ならカカシに代わって出産の苦しみを引き受けてあげたい。
つわりだけでもあんなに辛そうだったのだ。
あんなに細い腰で子供を産むのはさぞかし辛かろう、とイルカは唇を噛む。
それを口に出すと、カカシは笑った。
「だーいじょーぶですよ。世の中のお母さんがみんなちゃんとしている事ですもの。か弱
い普通の女の人に耐えられることが、オレに耐えられないわけないでしょ?」
過酷な暗部の訓練や任務に幼い頃から耐え切ったカカシの精神力、体力が普通の女性とは
比べ物にならない事くらいイルカも承知している。
「…だけど…っ…そうなんだけど…っっ…」
出産が命懸けになるケースは多いのだ。
「カカシさんっ!!」
火影屋敷の門をくぐり抜け、イルカは邸内に飛び込んだ。
台所で湯を沸かしていたサクラがその声に顔を出す。
「イルカ先生? 早かったのね。芥子さんは上よ!」
「ありがとう、サクラ!」
イルカは階段を駆け上がった。
カカシの部屋の前で止まり、息を整える。
「ヨネさん! イルカですっ!!」
「そこにいらっしゃい!! 殿方が来る場所ではありません!!」
室内からヨネにそう返されて、イルカは困ったように扉に手をついた。
「…そんな…」
せめて、苦しむ彼女の側で励ましてあげたいのに。
だが、扉の前でうろうろと歩き回るような愚をイルカは犯さなかった。
イルカは身を翻す。
湯を沸かすサクラを手伝う為に階下の台所に戻った。
「力仕事は俺がやる! サクラ、上でヨネさんを手助けしてくれないか。男の来る所では
ないと、俺は部屋に入れてもらえなかったんでな」
サクラは苦笑した。
「おヨネさんらしいわね。…じゃあ、これ上に運んでください。熱いし重いから、ちょっ
と困ってたの」
「ああ、わかった」
イルカは心の中でカカシと我が子の無事を祈りながら、その場で自分に出来る精一杯の事
をして『その瞬間』を待った。
そして、イルカにとっては随分長く感じられた祈りの時間の後、それは訪れたのである。


赤ん坊の産声が屋敷中に響き渡った。
ちょうど扉の前にいたイルカは、思わず両の拳を戸に叩きつけた。
「カカシさんっ!!」
それでも辛抱強くイルカは待った。
中から入室の許可があるまで。
扉がそっと開かれて、サクラが紅潮した顔を出す。
「おめでとう、イルカ先生。…どうぞ」
イルカは黙って頷くと、ゆっくりと中に入る。
衝立の横で、ヨネが満面に笑みをたたえてイルカを迎えてくれた。
「おめでとう。…可愛い赤ちゃんですよ」
イルカは堪えきれなくなって小走りに衝立を回り込んだ。
「カカシさん!」
「…イルカ先生…」
カカシが綺麗な笑みを浮かべ、そして傍らの小さな赤ん坊に目を移した。
「……ね、見て…男の子なの…」
まだくしゃくしゃの真っ赤なお猿さんだった。
小さな小さな手。その指。ちゃんと可愛らしい爪まであって。
こんなに小さいのに、人間としてのパーツが不足なく揃っている事は何かの奇跡のようだ
とイルカは思った。
イルカは黙ってベッドの傍らに膝をつき、労わるようにカカシの手を握る。
そしてそっとそっと、壊れ物に触れるように生まれたばかりの我が子の指に触れてみた。
赤ん坊が小さな指できゅっとイルカの指先を握り込む。
「……!!」
イルカの眼から思わず涙が溢れた。
この世で一番愛しく大切なもの。
右手で握った妻の手と、左の指を掴む我が子の手。
イルカは何も言えずに涙を零し続けた。
世の中のすべてに感謝しながら。



「イルカ先生のおまじないが効きましたよぉ。なんか、初めてとは思えないすっごい安産
ですって。普通、もっともっと時間かかるらしいです」
ベッドの上でカカシは疲れに効くという香草茶を飲みながら微笑んだ。
「でも、大変だったでしょう…? 俺、何にも出来なくて…こんな時、父親なんて無力な
ものだって思いましたよ…」
「あは…じゃあ、これからうーんと手伝って下さいね。…でもね、オレ聞こえてた。イル
カ先生、ずっと励ましてくれてたの。……オレ達ね、一緒にこの子を産んだの」
イルカの眼からまたじわあ、と涙が溢れた。
「あ…もう、またあ…イルカ先生ってばホントに涙もろいんだからぁ」
カカシはくすくす笑って、首を伸ばしてイルカの目許をぺろっと舐めた。
イルカも微笑み、カカシの唇にくちづける。
「愛してます」
「…オレも。…貴方の子じゃなきゃ、こんな大変な思いして産みたくないですよ」
イルカがさあっと蒼くなった。
「あああっ…やっぱり大変だったんですねーっ…すみませんっすみませんっ…!!」
「いや、別に謝らなくても……」
「ああっ…役立たずですみませんっ…」
「……いえ、役に立ったから子供が出来たんじゃ……」
「……………」
親が夫婦漫才を繰り広げている横で、この世に生まれたばかりの赤ん坊はすやすやと眠っ
ていた。
カカシが出産した1時間後にはもう火影から『出産祝い』としてベビーベッドが届けられ
たので、早速そこに寝かせている。
産着やおしめは、この日の為にヨネがせっせと縫ってくれていた。
何から何までヨネがきっちり手配してくれたので、イルカには本当にする事がなかったの
である。
「…えっと、とにかく何か欲しい物はありますか? 俺、実は授業ほったらかして来てし
まったんで、一度アカデミーに戻らなきゃいけませんので…帰りに何か買ってきますが。
ああ、後をお任せした紅さんにも御礼をしなくては」
「あー、そうだったんですかー。紅には世話になりっ放しですね。…ええっと、じゃあ蔓
亭のシャーベットなんかどうかなあ。…あのね、紅はあんまり甘いもの食べないけど、あ
そこのシャーベットは好きなんですよ。御礼にはいいんじゃないかな」
「ああ、蔓亭…知ってますよ。あそこのシャーベットですね。買っていきましょう。…カ
カシさんは何がお好きですか? 貴女も食べるでしょう?」
カカシは嬉しそうに笑った。
「えへへ〜わかった? …実はオレも大好きなの。…んっとね、さっぱり系がいいなあ。
柚子とか夏蜜柑とか…あー、でも基本的にあそこのはどれでも好き」
「わかりました。今日のデザートに、皆さんのも買ってきましょう。サクラもああいうの
は好きでしょうね。今日はあの子にも世話になったから、サスケと一緒に晩飯ここで食っ
ていくように言ってあるんですよ。ヨネさんがお祝いに、腕を揮って下さるそうです」
「わあ、楽しみですね〜…じゃあ、すみませんけど紅によろしく伝えて下さい」


イルカは一度アカデミーに戻り、教務主任に頭を下げた。
だが、もう紅がとりなしてくれたらしく、お叱りの代わりに祝いの言葉をくれたのだった。
「良かったな、イルカ。頑張れよ。妻子守っていくってのは大変だぞ。今度教員一同から
祝いをやるから、楽しみにしておけ。…ああ、それとちゃんと総務に届けを出して置けよ。
扶養家族手当て、出るからな」
「は、はい…ありがとうございます」
自分の倍の年齢の教務主任に再び頭を下げ、イルカはハッと気づいた。
届けを出す。
出生届。
「しまった…名前…まだ決まってない……」
イルカも、今の今まで何も考えていなかった訳ではない。
男の子だったら、女の子だったら、と暇さえあれば考え、紙に書いては丸めてきた。
書庫に行けばなにかいいヒントはないかと文献を漁ってしまうし、何処へ行っても人様の
名前が気になる。
だが、いっこうに決め手が無いのだ。
カカシは、「イルカ先生の方がオレより学があるから」と任せてくれている。
「うあ〜…どうしよう…」
もうあまり迷っている暇は無い。
お七夜までにはどうあっても命名しなければ。
カカシはああ言っているが、二人の子なのだからやはり二人で考えよう。
そう考えて、紅とカカシの為にシャーベットを買いに行くイルカ。

その夜、祝いに来てくれた紅も一緒に食卓を囲み、火影邸はいつになく賑やかであった。
カカシと赤ん坊は別室で眠っていたので主役抜きの祝宴だったが。
木ノ葉の里にまた一人『宝』が増えた事を皆心から祝福したのだった。





「よ、とーとー生まれたってなあ。おめでとうさん」
カカシの出産時は任務で里にいなかったアスマが、任務報告に来たついでにイルカの肩を
叩いた。
「あ、ありがとうございます。おかげ様で無事に男の子が生まれました」
イルカは深々と頭を下げる。
カカシの妊娠発覚時に、他の者が出産に反対する中、アスマは内心苦虫を噛み潰す思いだ
ったろうにカカシの腹の子供を庇ってくれた。
その事に本当にイルカは感謝していたのだ。
「ははは…アイツがマジに母親とはな。まあ、これからが大変か。…そろそろ見舞いに行
っても大丈夫か?」
「あ、はい。もう一週間経ちましたし…彼女もだいぶ回復してきましたから。アスマさん
には彼女も逢いたいだろうし…ぜひ、子供の顔を見に来て下さい。場所が火影様の屋敷だ
けに、俺の同僚なんかには敷居の高い所なんであまり見舞い客がいないんですよ」
「それはそれで助かっただろ。…そーだ、名前は? もう決まったのか」
イルカはにこっと微笑んだ。
「はい。なかなか決まらなかったんですが、やっと。今朝届けを出したんですよ」
アスマは新しい煙草を咥える。
「ふうん? 何てぇんだ?」
「チドリです」
ぷっとアスマが煙草を噴き出した。
「…何だってぇ??」
アスマの反応にイルカは首を傾げた。
「え…あ、ちょっと女の子っぽいでしょうか…でも、彼女が口にした時、何かいいかな
って…思って…」
アスマはがっしとイルカの両肩を掴んだ。
「お、お前…もう届けちまったのか? それが何の名前なのか知ってるのか??」
「な…何って…何か不吉な名前なんですか…?」
はあ、とアスマは息を吐いた。
「お前そりゃ雷切だ!! 千鳥だろう?」
「らいきり…?」
アスマは声を落とし、周囲に聞こえないようにイルカの耳に囁いた。
「千鳥ってのはカカシの必殺技だ。千鳥、つまり雷切で殺り損なった事は一度もねえ。…
文字通り、一撃必殺。あいつにしか出来ねえ、究極の暗殺技の…名前だ」
一拍置いて、イルカはアスマの言葉の意味を理解した。
「ええええええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
暗殺技。

我が子の将来を暗示したような命名に、イルカの目の前がすうっと暗くなった。
だが、時既に遅し。
出生届は受理されてしまった。
「…ま、母親がカカシなんて適当な名前なんだから、別に問題ねーか…チドリでも」
そう囁いたアスマはイルカの肩を慰めるように数回叩いて受付所から出て行った。
イルカの脳裏を、安らかに眠る可愛い息子の顔が過ぎる。
考えてみれば、妻の必殺技を知らない自分が悪かったのだ。(世間一般の妻は本当の意味で
の必殺技など普通持っていないのだから仕方ないが。)
イルカは自分を落ち着かせる為に数回深呼吸する。
カカシの必殺技。
彼女にしか出来ない究極の技。
どんなに辛い思いをして得たものか。それは彼女の血の滲む様な努力の結晶に違いない。
『千鳥』は彼女にとって大切な名前なのだ。
それを息子につけたとしても、何もおかしくはないではないか。
イルカはそう自分に言い聞かせ、深い息を吐いた。

「…いい名前じゃないか!!」



命名・うみのチドリ。


『写輪眼のカカシ』を母として生まれた彼の、波乱の人生の幕開けだった。

 

 



 

長男チドリちゃん。
(・・・これもどっかと被ってたらどーしようTT)
いや、あのね・・・海とか関係の名前、つけたかったわけですよ。
それこそ「クジラ」は筆頭候補でしたが。考えているうちに、何だか
「サザエさん」みたいになってきちゃって・・・(笑)
「カカシ」に似合うのは米とか麦関係とかスズメやカラス?
でもそこら辺は既に原作でも使われていました。
・・・ええい、こーなりゃ必殺技だ!!千鳥でいーやって事に。(笑)
女の子のカカシもやるんですね、雷切。

カカシ談
『「雷切」の「ライ」でも良かったんだけど〜発音が「ガイ」に似てる
からやめたの〜』

2002/10/13〜10/15(完結)

 

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