アスマ来訪 ≪うみの千鳥・生後八日≫
生まれたての赤ん坊ってのは本当に小さいものだ、とアスマは思った。 この物体がほんの一週間前まではカカシの腹に入っていたとは到底思えない。 『アスマはオレの兄さんみたいなもんだから』 とカカシは言う。 『だから、チドリはアスマの甥っ子みたいなもんだよね』 それじゃーイルカは俺の弟かい、とアスマは苦笑した。 だが人間余程ひねくれていない限り、無垢な赤ん坊や小動物を見る時の眼は優しくなる。 自然に唇に笑みも浮かぶ。そういうものだ。 アスマもこの世に生まれたばかりの赤ん坊がよろよろと慣れない風に手足を動かす様に目 を細めた。 言われなくてもカカシが産んだ子なら可愛くないはずがないアスマである。 「…強く生きろよ、チドリ。…お前の母親があんなんなのはお前の所為じゃないがな…ま あそれも一つの運命だと思って頑張れ」 ベビーベッドに横たわる赤ん坊はまだ定まらない視線を動かしている。 「アースマ。ヒトの息子に何妙な事吹き込んでんのさ」 長椅子でおしめをたたんでいたカカシがじろ、と睨んだ。 「べーつに。今後苦難の人生を歩むだろう男子に先輩から激励を送っているところだ」 カカシはふん、と鼻を鳴らした。 「悪かったな。…どーせオレは粉ミルクより爆薬の調合の方が得意な物騒な母親だよ」 「毒薬も得意だろ」 アスマの顔面に向かっておしめが飛んで来た。 「人聞きの悪い事ぬかすなっ ちゃんと普通の薬も調合出来るっ!!」 飛んできたおしめを片手で受け止め、たたみ直しながらアスマは窓の外を見遣った。 「あー、わかったわかった。…それより、旦那がご帰還だぜ」 「ホント?」 途端にカカシは嬉しそうな顔になり、窓に駆け寄る。 「本当だっ 今日は早かったんだー」 イルカは両手に大荷物を持って火影邸の門をくぐったところだった。 すっかり顔馴染になった警護の忍達と挨拶を交わしている。 視線を上げて窓辺のカカシを見つけると、イルカはにこっと微笑んだ。 カカシも満面の笑みでイルカに手を振る。 「…お前ら、まーだ新婚さんみたいだな」 アスマのからかいにもカカシは少し頬を赤らめただけで反論してこなかった。 ぷいっと顔をそむけ、イルカの出迎えに出ていく。 階下からはヨネとイルカのいつものやり取りが聞こえてくる。 「あら、お帰りイルカちゃん。チドリちゃんを抱っこする前に手を洗うんですよ」 毎日同じ事を言われるイルカだったが、これ以上ないくらい世話になっている老婦人に逆 らえるわけがない。 「はい、ヨネさん」 「そうそう、アスマ様がいらしてますよ」 「あ、はい。…ありがとうございます」 イルカが階段を上がっていくと、途中まで降りてきたカカシが微笑みかけた。 「おかえりなさい、イルカ先生。お疲れ様です」 「ただいま戻りました」 軽い接吻を階段で交わす。 「どうしたんですか? すごい荷物」 「これ、今日皆さんから頂いたんですよ。教員連中やら、生徒達やら、生徒の親御さん達 やら…お祝いと言うか、ご親切と言うか…」 イルカは部屋に入ると椅子の上にどさりと荷物を置き、アスマに会釈する。 「どうも、アスマさん。いらっしゃい…ってここで俺が言うのも変ですね」 「おう。邪魔してるぜ」 カカシがくすくす笑ってイルカに擦り寄る。 「聞いて、イルカ先生。アスマったらおかしーの。赤ちゃん抱っこしてみてって言ったら ね、嫌だって言うんですよ」 「は?」 アスマは少し赤くなって唸った。 「……いや、何だかこー…ちっこ過ぎて怖いんだよ。…ふにゃふにゃしてて頼りねえって 言うか…潰しちまいそうっつーか…落としちまいそうで…お前は触るの怖くねえのか? イルカ」 「あはは、仰りたい事はわかります。…そうですねえ、風呂に入れた時は…まあ、怖かっ たですね。まだ首据わってないし」 カカシの部屋には隣りに洗面所がついているので、イルカはヨネに言われた通り、そこで 手と顔を洗う。 ベビーベッドを覗くと、赤ん坊はふわ、とあくびをしたところだった。 必殺の暗殺技名などつけられていても本人にはまだ何の影響も無く、ごく普通の赤ん坊を やっているチドリである。 生まれる前にカカシが心配した通り少し小さかったが、健康面での心配はないらしい。 「おねむかな?」 「まー、今は寝てるかおっぱい飲んでるかですから」 カカシもイルカの隣りに来て、ちょいと赤ん坊の頬を指で突つく。 「今日もいっぱい飲んだんだよねー」 「カカシさん、お乳の方は大丈夫ですか? 夕べ熱持ってたでしょう」 アスマはちらりとカカシの胸元に眼をやった。 洗濯板などと形容していたが、常に上体に晒しを巻いていたカカシの胸が実際はどの程度 だったのかアスマは知らなかった。 が、結婚前と比べると明らかに彼女の乳房は大きくなっているようである。 女性の乳房とは、なるほど赤ん坊の為にあるのだとアスマは再認識した。 「うん、ちょっと張っちゃって痛かったんだけどー…」 アスマはごほん、と咳払いした。 「お前ら、そういうナマナマしい話は二人っきりの時にやれ」 あはは、とカカシは笑った。 「アスマったら照れてる。ねーね、アスマ知ってた? お乳ってまずいんだよ。何でこん なまずいもん一所懸命飲むのかね、赤ん坊って。オレさあ、もしかしてオレのお乳って特 別味が悪いんじゃないかと思ってヨネさんに相談しちゃったよ。何だか色も青みがかって るしさあ…したら、これで普通なんだって。心配しちゃうよね…オレ達って、耐性訓練で 毒飲んだりしてるし…まずいのその所為かと思ってあせったっけ」 母親の体内の毒素が母乳に出ているなら大問題なのであるが。 「まずいって…お前、飲んでみたのか?」 うん、とあっさりカカシは頷いた。 「だって搾り出さないとおっぱい張っちゃうし溢れてきちゃうんだもん。捨てるのももっ たいないかなって、飲んでみたらゲロマズ」 「…お前……いくら自分の乳でもゲロマズはねーだろ……」 さっきよりもナマナマしくなった話題に、アスマはやれやれと肩を落とした。 やはり野営時の野郎同士の猥談なんかからは隔離しておくべきだった。 その昔カカシが少女なのだと知らない他の忍達は、彼女の前で平気で男同士のくだらなく も卑猥な下ネタを繰り広げてくれて―――アスマは内心ヒヤヒヤしていたのだ。 カカシはと言うと、そんな話題の内容を理解しているのかしていないのか、ただ無表情に クナイを研いでいただけだったが。 だがそんな毒々しい話題は確実に彼女から羞恥心とか慎みとかを奪ってしまったのではな いかとアスマは嘆息する。 「だって不味いんだもん。なんなら飲んでみる?」 「お前亭主の前でなんつーコトを…」 またもや深々とため息をつくアスマをカカシは睨んだ。 「えーっち。誰が直におっぱい吸えって言ったよ。オレの乳吸っていいのはチドリとイル カ先生だけだっ!!」 男二人は床に撃沈した。 きょとんとしているカカシをよそに、アスマはイルカににじり寄ってその肩を叩く。 「……すまん、イルカ…あんな風に育てたつもりはなかったんだが……」 「い…いえ、アスマさんの所為じゃ…」 真っ赤になって涙目のイルカは首を振った。 育て方云々を言うなら、責任はアスマにではなく、今は亡き四代目にあるだろう。 四代目が聞いたら彼にも言い分はあるだろうが。 「…何? オレなんか変なコト言った?」 アスマは首を振る。 「あー…わかってねえ…」 急に心細そうな顔になって、カカシはイルカの袖をつかんだ。 「イ、イルカ先生…オレ、また変な事言ったんですか?」 イルカは何とか立ち直る。 「あー、あのね…内容的にはおかしくないんですよ。確かに貴女の…いやその、貞操観念 は。ただ表現がストレート過ぎたんで、人前ではそういう言い方をなさらない方がいいと 思います」 「…はあ…」 カカシは曖昧に頷いた。 「とにかく、お前のまずい乳なんか俺はいらん。チドリに飲ませとけ」 途端にカカシは眼を剥く。 「何その言い方ーっ!! アスマってデリカシーゼロだなっ」 「まずいってお前が自分で言ったんだろうが…って言うか、お前にデリカシー無いなんて 言われたかねえぞっ」 「カカシさん…っ…アスマさんも…」 「ふぎゃああああぁぁん…」 イルカの声よりも、赤ん坊の泣く声にカカシ達はぴたっと口論をやめた。 「ホラもお、アスマがおっきな声出すからチーちゃん驚いちゃったじゃない。ごめんねー」 途端にしっかり『母親』の顔になってしまったカカシに、アスマは苦笑した。 カカシはベッドから息子を抱き上げる。 「おしめかな?」 カカシがまだ不慣れな手つきで赤ん坊の世話をしているのを横目で見ながら、アスマはイ ルカに笑いかけた。 「坊主はどうやらお前さんに似たな。眼の色とか髪の色とか、黒っぽいからな」 イルカは少し首を傾げた。 「そうですねえ…そういう色彩はどうやら俺の方に似てしまったようです…顔立ちなんか はこれから変化するんで何とも言えませんが…目鼻立ちは彼女に似てくれたらいいなあと 思いますよ」 カカシは顔を上げた。 「なぁに? イルカ先生、どうして? オレはチドリがイルカ先生に似てくれたら嬉しい のに」 「いやあ…カカシさんに似たらさぞかし可愛いだろうと思って……ほら、カカシさん美人 だから」 真顔でそう言いのけるイルカに、カカシは頬染めて俯く。 「え〜…でもぉ…」 「男の子はお母さんに似る事が多いそうでございますよ? カカシ様」 いつの間にかお茶を載せた盆を持ったヨネが戸口に立っていた。 この老婦人の身のこなしを見るにつけ、元はくノ一だったのではなかろうかとアスマは疑 っている。 すぐにイルカが盆を受け取りに向かった。 「ありがとうございます、おヨネさん」 「アスマ様からお菓子を頂戴しましたので、お持ちいたしました」 盆の上には綺麗な和菓子がお茶と共に載っていた。 イルカはアスマを振り返る。 「ありがとうございます、アスマさん」 「いや…まあ、子供の祝いはまたの日って事でな。カカシもその菓子なら食うだろ」 「ありがと、アスマ」 何だかんだ言いながら、自分の好みの物を持って来てくれるアスマにカカシは微笑んだ。 「おヨネさん、男の子は女親に似るものなのですか?」 ヨネがテーブルに茶を並べる間、盆を支えていたイルカはそう訊ねる。 「そうですねえ…まあ、色々でございますけどね。お父様に瓜二つの息子さんもいらっし ゃいますけども。ねえ、アスマ様」 「う」 どうやらアスマは父親そっくりであるらしい。 「イルカちゃんは、どちらかと言いますとお母様似ですね。目の辺りとか、お母様によく 似てますよ」 そーなんだー、とカカシは興味深げに夫の顔を見る。 「育ってからのお楽しみでございますわね。どちらに似ても可愛い坊やですわ、きっと」 イルカは椅子の上の荷物をゴソゴソと開け、中から何やら包みを取り出した。 「ヨネさん、これ…頂き物なんですが…食べると母乳の出が良くなるからって…餅をたく さん頂いてしまって…」 ヨネはあら、と頬に手を当てた。 「まあ、そう言いますわね。…カカシ様、召し上がりますか?」 カカシはブンブンブンっと首を横に振った。 「いやーっこれ以上出たら服がガビガビになっちゃうっ…ただでさえ当ててる布がぼっと ぼとになってんのにっ…皆で食べてっ! オレは出が悪くなったら食べるからっ」 アスマは妙に感心したようにふうん、とカカシの胸を眺め、そしてまたベビーベッドに話 し掛けた。 「良かったなあ、チドリ。お前、おっぱいだけは不自由しねえで済みそうだぞ…」 アスマの頭上にまたおしめが飛んで来た。
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えー、まだ生後八日のチドリ君です。 おっぱいの話は実話(?)。 叔母さんが何故かウチに出産しに来て、産んでからもしばらくいましたから・・・その時の見聞。 ホントに青みがかってたと記憶してます。お乳。 お餅を食べると・・・というのはBBSでM様に教えて頂いた情報です。ありがとうございました。 2002/10/29 |