「う…ン…ッ…」
気づいた時は、もう一度胸に抱き締めて唇をふさいでいた。
先刻の、触れるだけのものではなく、カカシの唇をこじあけ、その舌を求める激しいキス。
カカシが初めて怯えたように眼を見開いた。
「…カカシさん…俺、やっぱり…ダメです…貴方が欲しい…」
イルカの腕が、カカシの抵抗など封じ込めるように抱き締めてくる。
「イル…」
カカシの身体の中にも、ぞくんと甘い疼きが走った。
嫌悪感はなく、この男にこれから愛されるのかもしれないという期待の方が頭をもたげる。
カカシが腕を上げ、イルカの背中に手を回そうとした時―――彼女の顔が微かに歪む。
「…痛…っ」
「カカシさん…? どこか、痛めていたのですか…?」
途端に気遣わしげな顔になる男を押しのけ、カカシは下腹を押さえた。
「カカ…」
「………ついて来るな―――っ!」
カカシは一瞬のうちにイルカから飛び退き、あっという間に姿を消した。
後に残されたのは茫然としたイルカ。
「カカシ…さん…?」
そして彼は、今日のカカシらしくない失態と、苛々した物言い、今の彼女の仕草、そして
先刻の打ち明け話を頭の中で総合して考えた結果、ひとつの答えを導き出し――赤面する。
「あああ…やっぱりそうだ…始まっちゃったあ…」
木の陰でごそごそとズボンを履き直しながら、カカシはため息をついた。
「ちっくしょー、やっぱ女って不便だっ!」
はあ、とさっきのイルカのキスを思い出す。
イルカの事は好きだと思う。
彼が望むなら、抱かれてもいいかもしれないと思ったのに。
「…こーゆーのって、タイミングだよなあ……勢いって、あるよねー…」
もう、ダメかもしれない。
彼はもう、正気に返って(?)しまっただろう。
こんな女としての魅力に乏しい乱暴な女、二度と『欲しい』などとは思わないかもしれな
い。
彼は真面目だから、上忍の自分にはまた一線を引いた礼儀正しさで接してくるはずだ。
「……はあ…」
カカシはため息をついた。
せっかく、処女をあげてもいいかな、と思う男に逢えたのに。
正気に返った男を誘惑する自信などカカシには皆無だった。
「オレってば、ホントに胸ないしなー…仰向けに寝たら男と変わんないもんな…」
大きな乳房は見るからに重そうで邪魔そうで、動きを制限しそうな気がして…自分にはあ
んなもの無くて良かったと、いつもは負け惜しみではなく心からそう思っていたというの
に。
(…男って、たいていはでっかい胸が好きだもんなー…イルカ先生だって、きっとおっきな
おっぱいの方が好きに決まってる…ああ、オレってば、シリもあんまり無いじゃん…)
こりゃー決定的にダメだわ…と、自己完結したカカシは一人で乾いた笑いを浮かべた。
ぽてぽてと、冴えない足取りで戻って来たカカシを、イルカは心配そうに迎えてくれた。
「…大丈夫ですか? …カカシさん」
「え…ハイ…」
言葉少なに答えるカカシに、イルカは申し訳無さそうな顔で謝る。
「すみませんでした…カカシさん。…もう、あんな乱暴な真似はしませんから…許してく
ださい…」
カカシは、下げられた男の頭を、泣きそうな顔で見つめていた。
(…ほらね、この人はもう正気に返ってしまった……二度とオレを欲しがったりしない…)
「…別に…怒ってません…」
カカシは小さく答え、焚き火の近くに寄った。
イルカはホッとしたように微笑を浮かべると、焼き魚と乾し飯をカカシに差し出した。
「どうぞ。お腹、空いたでしょう。…お腹にそれを入れたら、こちらの薬湯を飲んで下さい。
…鎮痛効果があります」
「は?」
カカシは顔を上げた。
「…痛いのでしょう? …すいません、気が利かなくて…あの、男にはよくわからない世
界の事なんで、ちゃんと理解は出来ていないと思うんですが…その…痛い人は結構辛いん
だって…聞きましたから……」
イルカは恥ずかしそうにボソボソとそう言うと、赤くなった顔をそむけた。
カカシの顔も赤くなる。
(…気がついたんだ…オレが…月役…なっちゃったの…)
そして、生真面目にカカシの身体の事を考え、彼なりに精一杯の出来る事をして待ってて
くれた。
カカシの眼から、ぽろりと涙がこぼれる。
(どうしよ…オレ…この人、ホントに好きになっちゃった…)
「…ありがとう…」
こぼれた涙をイルカに見られないうちに拭い、程よく焼けた岩魚を一口かじる。
「美味しい…」
「あの…カカシさん…」
「はい…?」
イルカは言いにくそうに視線を彷徨わせ、それから意を決したように向き直った。
「あの…ラーメン食いに行く約束、まだ有効でしょうかっ? …その、改めて…お誘いし
たいかな…なんて…」
カカシは今のイルカのセリフを反芻した。
誘いたい…そう言った…?
「…イルカ先生…それ、でーと?」
イルカは、またほわんと赤くなった。
「そ、そうとも言いますか…っ…いやあの…貴方が別のものの方が良かったら、ラーメン
じゃなくても…」
イルカの赤くなった顔を見ながら、カカシは自分の考えの狭さを思って自嘲していた。
この人は、勢いだけで出任せに『好きだ』などと言う男ではなかった。
確かに、はずみでされたような告白だったが、それは彼の本心故に飛び出た言葉。
彼の言葉をきちんと信じていなかった自分に、カカシは自分を殴りたい心境だった。
「…ラーメンがいい。……連れて行って下さい」
イルカは、カカシまで嬉しくなるような顔で笑った。
「良かった! 俺、貴方にもう嫌われたかもしれないって、さっきからもう…」
「……オレね、デートに誘われたのって生まれて初めて。…嬉しいです」
カカシはちょこんと首を傾げた。
「…またキスもしてくれるの? イルカ先生」
イルカは、ぎこちなく頷いた。
「あ、貴方が…許して下さるなら…何度でもしたいです…」
カカシは小さな声で訊いた。
「………オレのこと…欲しいって…まだ思う…?」
「……だから…貴方が嫌な事は…しませんよ……その、俺…性急過ぎたと反省しています」
「欲しいの、欲しくないの」
「欲しいです!」
カカシは微笑んだ。
「……じゃあ、あげる。…いつか、オレの気持ちの整理がついたら…そしたら、あげるね。
…でも、断わっとくけど、ホントに大したもんじゃないから、がっかりしないでね?」
「そんな…」
イルカは赤い顔のまま首を振った。
「カカシさんは、そのままでとても綺麗です。…俺の方こそ、ご期待に添えないかも…あ、
俺何言ってんだろ……あの、俺は本当にカカシさんが愛しいから、愛したいと思います。
…でも、貴方の気持ちを尊重したい。気持ちの整理と言うのはわかります。…貴方は、ず
っと男である為に気を張ってきたのだから。…貴方に、俺の気持ちに応えて下さる気がお
在りなのだとわかっただけで俺は嬉しいです。……だから、もう急ぎません」
カカシは頬を染めてこくんと頷いた。
思わず、イルカが前言撤回して押し倒したくなるほど可愛らしい。
今度はイルカの方がいきなり立ち上がって、身を翻した。
「イルカ先生っ?」
「すいませんっ! 今度は男の事情ですっ!」
という声を残し、凄まじい勢いでどこかに行ってしまった。
やがて、沢の方から彼が飛び込んだらしい水音が聞こえてくる。
カカシはのんびりと岩魚をかじった。
「…………男の子も結構大変ねー……」
◆
カカシは嬉しそうに真新しい鞣革の手袋をはめた手を陽にかざした。
手甲代わりに甲にプレートがついた、指無しの手袋。
カカシがいつも手の保護の為につけている物と同じデザインだ。
ただし、ほんの少し色が違う。
いつもは黒いのだが、新しいものは深い紺色だった。
「…ご機嫌だなあ、カカシ」
同僚に声を掛けられたカカシは、うふふ、と笑ってみせた。
「彼に買ってもらったんだー。いつもと同じ色だと、持ってるのと混じっちゃうから違う
色を買ってもらったの。初めてのプレゼントなんだよ」
カカシの本当の性別を知る数少ない同僚の一人、アスマは苦笑する。
「お前に彼氏? どういう野郎だよ。随分奇特な御仁じゃねえか」
そこでスッと声を落とす。
「…そいつ、知ってるんだな? お前の事」
「…うん。一緒に任務に行って、バレた。…でも、すごくいい人なんだよ。…そうだ、今度
アスマにも紹介するね」
「おう。お前を泣かせそうな男だったら、俺が許さねえよ。ぶん殴ってでも別れさせてや
るからな」
カカシはにっこり微笑んだ。
「やーだなー。そんな男だったら、アスマより先にオレが殴り飛ばしているよ」
「それもそうか」
イルカが聞いていたら冷や汗ものの会話を交わし、カカシはアスマに手を振った。
「じゃあね。…これからデートなんだ。美味しいラーメン食べに行くの」
「プレゼントが忍具でデートがラーメン屋? …どういう野暮天野郎だよ。…その分だと
心配もなさそうだな。…うまくやんな、カカシ」
「うん。…だってオレ達、これからだもの」
一方のイルカは。
「なあイルカ…お前、最近あの銀髪の上忍とつきあってるって本当か…?」
アカデミーで、教師仲間からそう訊かれたイルカは素直に頷いた。
「ああ、カカシさん? …うん。前、ちょっとした任務でご一緒してね。それからつきあい
はあるけど」
同僚の中忍は、納得したようにイルカの肩を叩く。
「そうか…お前、女と浮いた噂がねえと思ったら、そういう趣味だったんだな…安心しろ。
俺はお前がゲイでも差別はしねえから」
「は?」
とイルカが口を開けて茫然としている間に、同僚はどこかに立ち去ってしまった。
はっとイルカは我に返る。
そうだったのだ。
男の振りをしているカカシとつきあうという事は、自分はゲイとかホモとかそういう趣味
に見られてしまうと言う事なのでは―――
イルカはしばらく唸った後、「ま、いっか」と苦笑した。
カカシは忍姿でいる時は本当に立居振舞が完璧に男なので、そういう『彼』と一緒にいれ
ば男同士に見えるのも仕方ない。
イルカは、カカシがカカシであればいいので。
「イルカせんせーい」
愛しい人の声に、イルカは立ち上がった。
「今行きます。…カカシさん」
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