「シアン! その小川から向こう側は、うちの領地じゃない! 戻って!」
サクモの注意に、少女は少しだけ振り返ったが、手綱を引く素振りは見せなかった。気持ちよさげに走る馬の勢いにまかせ、緩やかな丘の斜面を駆け下りていく。
そして、そのまま小川を飛び越えてしまった。
サクモは、仕方なくその後を追う。
彼の馬が小川を飛び越えたところでシアンは手綱を引いた。
「あら。こちらに来てよろしかったんですの?」
「………君が、行ってしまうからじゃないか」
クスクス、とシアンは笑った。
「ごめんなさい。…でも、翠鉱家の領地から出たところで、お咎めを受けるわけではないでしょう? それとも、ここは御許しが無いと入れない他の方の領地?」
「いや。………ここは、国有地。国が所有する土地だ。基本的には、入ったところで罪にはならないけれど」
「なら、よろしいではないですか。…この森の向こうに、碧い湖があるのでしょう? わたくし、その湖を見てみたくて。綺麗な鳥が、たくさんいると聞いた事がありますの」
サクモはそっとため息をついた。
彼女の言う通り、領地から出たと言って、何が悪いわけではない。
ただ、領地内で起きた事ならば、大抵のことは領主の一存で何とでもなるが、そこから一歩出たところで何事か起きた場合、そうはいかなくなる、というだけだ。
「わかった。じゃあ、その湖を見たら戻ろう? 遅くなってしまう。せっかくカノウ達がお茶の支度をしてくれているのに、ゆっくり飲む暇も無く屋敷に戻らなくてはならなくなるよ」
「ええ、もちろんですわ」
森に入ってしばらく進んだところで、空模様が怪しくなってきたことにサクモは気づいた。
「………シアン。西の空に、随分と暗い雲が出てきた。たぶん、もうすぐ降りだすよ。…確か、湖の近くに森番の小屋があるはずだ。今から屋敷に引き返すよりも、その小屋に行って、雨宿りをする方がいい」
シアンも、梢の間から見える空を見て、頷いた。
「わかりました。では、降りださないうちに参りましょう」
あまり訪れる者はいないが、立ち入りが禁止されている森ではない。
馬で通れるくらいの道は整備されているので、道なりに湖に向かえば、番人の小屋はすぐ見つかるはず。
サクモが察した通り、しばらく馬を走らせると空に一筋、煙が立ち上っているのが視認出来た。小屋で、何か火を使っているのだろう。
「シアン、あっちだ」
朝の好天が嘘のように、見る間に空が真っ暗になっていく。
ポツ、ポツと降りだした雨は、瞬く間に激しさを増していった。
「まあ、ひどい雨」
「急ごう」
森番が使う小屋が見えてきた。
小さな厩舎があるのを見て、サクモはホッとする。雨の間、馬をきちんと休ませられる場所があるのはありがたい。
と、馬が何かに怯えるように首を振った。小屋に近づくのを嫌がっているのだと気づいたサクモは、手綱を引いた。
「シアン、止まって。…馬の様子がおかしい」
「え? 何ですの?」
シアンが馬をとめた、その瞬間。
小屋の扉が荒々しく開き、武器を手にした男達が姿を現した。
サクモは周囲に眼を走らせ、思わず舌打ちをする。
いつの間にか、囲まれていた。ざっと、七〜八人はいる。
男達の異様な雰囲気に、シアンは怯えた。
「………あ……あの………私達は、怪しい者では………ただ、雨宿りを………」
「シアン、違う。今、目の前にいる人達が、『怪しい者』なんだよ。………森番が、こんなに大勢いるものか」
それにただの森番なら、見るからに貴族の子女といったサクモとシアンを脅すかのように、武器を向けて来るわけがない。
「………馬から、降りな」
弓を構えている男がいるのに気づいたサクモは、馬で強行突破の手に出ることを諦めた。自分一人なら、それも可能だったが。無茶をして、もしもシアンが射られたりしたら、どんなに後悔してもし足りない。
「わかった。弓を下ろせ」
サクモとシアンが馬から降りると、サッと二人の男が出てきて、手綱を奪った。
「ヘッ、さすがお貴族様。いい馬に乗ってやがる」
「こういう馬は高く売れる。傷をつけるなよ」
馬を奪った男達は、サクモとシアンに剣や斧を突きつけ、小屋に入るように顎をしゃくる。
「小屋に入れ。雨宿りがしたいんだろ?」
シアンは怯えて、サクモの腕にしがみついた。
「…中に、入ろう。このままではびしょ濡れになるよ。…大丈夫、僕がいる」
男達はドッと笑った。
「大丈夫、ボクがいる……だとよ。可愛いこと言うねえ。坊ちゃん、コイツももらっておくぜ」
男は、サクモが護身用に腰に帯びていた細身の剣を取り上げた。
剣の柄に刻まれていた翠鉱家の紋章には気づかない。そこまでの素養が無い上、男にとっては紋章よりも柄に嵌め込まれていた碧玉の方が大事らしい。
「これ、宝石か? 高そうな剣だな」
小屋の中に足を踏み入れたサクモは、僅かに顔を歪めた。血臭だ。
中の暗さに眼が慣れた二人が見たものは、無残に殺された老人の遺体だった。
「………ッ………」
生まれて初めて、惨たらしい遺体を目の当たりにしたシアンは、悲鳴すらあげられなかった。
ただ、息を吸い込み、絶句する。
そんな彼女を背中に庇ったサクモは、彼らの中で頭と思しき男に視線を据えた。
「………………森番を、殺したか。………何が目的だ」
「随分と冷静なガキだな。…おれらの目的なんざ、お坊ちゃんは知らなくてもいい事さ。…そのジイさんは、生かしておいてもジャマなだけだったので、一足先に神様の国に行ってもらっただけさね。………安心しな。お前らは殺さねえよ。まったく、いい獲物が飛び込んできてくれたもんだ。売りものを捜しに行く手間がはぶけた」
男達が、金目当てのならず者集団だと判断したサクモは、尋ねた。
「身代金を要求するつもりか?」
そうさな、と男はサクモとシアンを値踏みするようにジロジロと見た。
「坊ちゃんも嬢ちゃんも、滅多にお目にかかれねえ上玉だ。いつもなら人買いに高値で売り渡すところなんだが………さて、身代金を親に出させるのと、どっちが得かねえ」
男達は顔を見合わせた。
「そりゃ、コイツらの親がどんだけ金を持っているかだろう」
「いやでも、親と交渉するのは面倒だぜ? ヘタをすれば追っ手が掛かるしよぉ。関わらねえ方がいいんじゃねえか?」
まずいな、とサクモは唇を噛んだ。
この男達の目的は、人身売買だ。身代金が目当てなら、金さえ渡せば解放される可能性があるのに。
「上手くやりゃあ、両方手に入るかもな。うまい事、親から金をせしめて、そんで人買いの奴らに売っちまえばいい。…女の方はともかく、男でこの器量ってのは滅多に手に入らねえ。見ろ、この顔。コイツは高く売れるぜ」
頭らしき男が、サクモの顎に手をかける。
「…あんま、妹と似てねえな。お前ら、兄妹じゃねえのか」
サクモは、一瞬考えた。ここは、どう答えた方がいいだろうか。
とにかく、彼女を鄭重に扱うように仕向けねばならない。―――ならば。
だが彼が答える前に、サクモよりも価値が低く見られた上に妹扱いされたシアンが、憤慨して口を滑らせてしまった。
「妹ですって? 違いますわ」
ほう、と男は口の端に笑いを浮かべた。
「兄妹じゃない。…ってえコトは、身代金をバラバラに要求できるってこったなあ。坊ちゃんの親と、嬢ちゃんの親に」
アッ、とシアンは口を押さえた。兄妹だとしておいた方が、良かったのだろうか。だが、もう遅い。
混乱したシアンは、更にまずいことを口にした。
「わたくしはもう、嫁いだ身です! 実家は関係ありません!」
「シアン!」
サクモが慌てて止めたが、遅かった。
男達が、下卑た視線を彼女に注ぐ。
「ほーお、それは失礼。お嬢ちゃんじゃなくて、奥様だったか。………貴族の娘っこなら、結婚するまではまず生娘だろうから、ソレを売りに出来たんだけどなぁ。………そーかい、人妻かい。ちぃっと商品価値は下がるが、仕方ねえ」
「…なら、なにも大事にとっておく必要は無えなあ。おれ達で味見をしてから売っても同じだもんよな」
シアンは、身を竦ませてサクモの袖をぎゅっとつかむ。
その手を、宥めるようにサクモは掌で包み込んだ。
男達は、怯えるシアンを楽しそうに眺めている。
「まー、お楽しみは後だ。…坊ちゃん、お前の親に手紙を書きな。余計な事を書くんじゃねえぞ。おれ達の中にも、字くらい読めるのはいるんだからな」
ふ、とサクモは息を吐いた。
「………父上は今、病床にある。このような事でご心痛を与えたくは無い。………私の身代は、私が払おう。お前たちが望むだけ払うから、妻には手を出すな」
男達は一瞬キョトンとした。サクモの言葉が呑み込めないような顔をしたが、次の瞬間、大笑いをする。
「わ、笑わせてくれる。てめえの身代をてめえで払う? 妻だぁ? おままごとやってんんじゃねえんだよ。ちっと痛い目を見ねえと、てめえの今の立場ってモンがわかんねえみたいだな」
サクモは軽く首を傾げた。
「お前達は、金が目的なのだろう? それを払おうと言っているのに、どうしてそうなる? 言っておくが、私達をどこぞに売るという方がリスクは高いぞ」
「うるせえよ、お坊ちゃん。ラクしておまんま食って、あてがわれたお姫様を女房にしている貴族のガキが、ナマ言ってんじゃねえぞ。おれ達が、世の中の厳しさってヤツをその身体に教えてやるっつってんだよ」
男達の眼で、サクモは気づいた。
彼らの目的は、金だけではない。貴族の子供である自分達を陵辱することで、憂さを晴らす気なのだ。
今更、シアンはまだ処女なのだと言ったところで、信じはしないだろう。いや、そんな事を言ったら火に油だ。『確かめる』という名目で、彼らは彼女を辱める。
サクモは、腹を括った。
「…わかった。どうやら、交渉はムダのようだな。………貴様らがそのつもりなら、私は自分の妻を護る為に手段は選ばない」
男達は、ここでも少年のセリフを笑った。
「可愛い顔して、勇ましいこった。お前には眼がねえのか。人数を見てみろ」
サクモは大人の男八人を、冷ややかな眼で見渡した。
「………そうだな。…悪いが、やりあう気なら覚悟してくれ。私は、実戦経験が少ない。………この人数を相手に、手加減をして戦うことなど出来そうもないから」
暗に、命がいらないならかかって来い、と言っているようなものだ。
その挑発に、男達よりシアンの方がぎょっとした。
「や…やめて。………危ないですわ」
「……………シアン。ごめんね、ちょっと怖い思いをさせるかもしれない。…でも、君は僕が護る。絶対に、護るから」
少年が帯びていた武器は腰の剣だけだと思っていた男達は、眼を疑った。
サクモの手に、いつの間にか鈍く光る短剣が握られていたのである。
男達は既に何の罪も無い老人を殺している。自らの欲望と目的の為に殺人を犯すことに何ら良心の呵責を覚えない輩に対し、剣を振るってもそれは正当防衛というもの。
―――サクモはそう自分に言い聞かせた。
今ここで戦わなくては、自分の身もシアンの身もどうなるかわからないのだ。
サクモは深く息を吸い、男達を睨み据えた。
(10/05/12) |