天よりきたるもの − 19
八雲が村へ帰ったその日の夕方。 カカシとイルカは、馴染みの居酒屋の暖簾をくぐった。 最初、八雲から『イルカ』に渡された礼金は、今回の任務に関わったアスマや子供達、ヒ ダネを呼んで打ち上げをして使い切ってしまおうと思ったのだが、よく考えたらアスマ以 外は誘拐された巫女がイルカだったことを知らない。 今更説明するのも面倒だし、イルカ抜きでイルカへの礼金を使うことにカカシが難色を示 した。ではアスマだけでも呼ぼうと思ったが、あいにく彼は既に次の任務で里を出ていた のである。 ならもう、二人だけで打ち上げをしよう、と言う事になった。 アスマには後で一升瓶でも届ければいいし、子供達も今度何か口実を見つけて焼肉屋にで も連れてってやればいい。 こういう金は、飲み食いに使ってしまうのが一番なのだ。 「ビールにします? イルカ先生」 「………いえ、米酒を…冷で」 カカシは酒肴を選びながら、小さく笑った。 「後遺症ですかね」 「…え?」 一瞬、何を言われているのかわからなかったイルカは、キョトンとした。 「………アナタ、あの村から帰ってきてから、酒と言えば冷酒しか飲んでいない。あの姫 神さま、冷たいお酒がお好きみたいでしたから。…乗っ取られていた時の後遺症じゃない かな、と。………ええと、オレは茄子の漬物とタコの唐揚げ、アスパラのベーコン巻きに シシャモ………イルカ先生は?」 イルカには、姫神に憑依されていた時の記憶が一切無かった。 滝の前の祭壇で八雲に腕をつかまれて、少しバランスを崩してよろけた。そして眩い光に 包まれ―――それからの記憶がない。 気づいた時は、琥珀の屋敷で寝ていたのだ。 玻璃のことなど今回の事件のあらましは、大急ぎで里へ引き揚げる途中でカカシに聞いて、 ようやく知ったのである。 「ああ…そういえばそうですかねえ………何となく、他のものを飲む気にならなくて。特 に気にしていませんでしたが………別に体調も悪くないし。どちらかといえば、前より調 子いいくらいです。…神様が入っていたおかげですかね」 『姫神』は、自分は神などではないと言っていたが、古来より神として崇められてきた存 在ならば、やはり妖しではなく神と呼ぶべきだろう。事実、彼女は人間にとって、護り助 けてくれる善神である。 イルカは品書きを見ながら、肴を選んでいく。 「…俺は冷奴と、マグロの山かけと、ササミの梅シソはさみ揚げ、焼きおにぎり…あ、何 かサラダも」 「じゃあ、大根サラダ頼んでいいですか?」 「ええ。カカシ先生のお好きなものを」 カカシは店員を呼び、今お互いが挙げたメニューを二人前注文した。 程なく揃った料理を前に、カカシはイルカの杯に冷酒を注ぐ。 「………ま、お疲れ様。…これで、本当の任務完了というわけですね」 イルカもカカシの杯に酒をついだ。 「ええ。………これで、終わりです」 木ノ葉まで『イルカ』を追ってきた八雲。彼の顔と声を思い出すと、イルカの胸はしくり と小さく痛んだ。 カカシは杯の縁に指を滑らせながら、呟く。 「………好きでした、か………ちゃんと過去形で告白するんですもんね〜…オレ、ちょっ とくるものがありましたよ。…何か、切ない感じで」 イルカは飲み干した冷酒の杯を、コトンと卓に置いた。 「八雲さん、本当にわかっていたわけじゃないと思うんですよ。…あの時まで彼は、忍が 変化の術を使うことも知らなかったんですから。………でも、何となくそうなんじゃない かなー、とおぼろげに感じ取った。…そんな風に見えました。だから、追求もしてこなか ったのだと思います。…彼は、彼なりにそう思うことで自分の気持ちにケリをつけたんで しょう」 「気持ちにケリをつける、ですか………相手は手が届くはずもない天女のような存在。恋 をしても報われるわけがない幻だった、と………そう自分に言い聞かせる。ま、それがた またま大正解だったワケですねえ。…それにしても………」 ふふっとカカシは苦笑した。 「…恋する男のカンも侮れないもんだ」 イルカは唇を噛む。 「俺は………何かボロを出しましたか? …彼にわかってしまうような………」 いいえ、とカカシは首を振る。 「オレ、見ていましたけどね。…アナタは実にお見事にバックレてましたよ。彼の質問を 避けるでもなく、後で彼が誰か他の忍に同じ質問をしても食い違いなど起きないように、 きちっと答えていましたし。………アナタがドジったとすりゃ、あれですね。…『ハタ』 君に、もっとちゃんと仕事をするように掛け合うって言った、あれ。………眼にね、アナ タの気持ちが現われてしまっていた。…八雲さんに、少しでも誠実でありたい、彼を助け たいって。………あれは、はるばる遠くから知らない村の為に来てくれた……彼が恋した 女の子と、同じ眼だったんです。………あれで何も感じなきゃ、かなりの鈍感ですよ」 う、とイルカは呻いた。 「…そう…かもしれませんね……カカシ先生にも…ご協力頂いたのに、すみませんでした。 それにあの………しょ、職務怠慢とか言っちゃって………」 「ああ、いえ……あのくらいは。オレ、無関係じゃないですし。…ウン、確かにハタ君は 職務怠慢でしたね。ちょっとイルカちゃんにフラれたくらいで諦めちゃうんですから、根 性の無いヤツですよ。………でも、仮にですよ、イルカ先生にもう一度行って来〜い、と どやされたオレ…いや、ハタ君は、果たして任務遂行出来たんですかね? ……実際の話、 八雲さんにあんな事言っちゃってイルカせんせ、どうするつもりだったんです?」 イルカは冷酒を一口飲んだ。 「……仮に…俺がハタ君をどやしていたら……彼は、今度はちゃんと任務を果たせるんで すよ。………『彼女』は、八雲さんに会ったでしょう」 「………会って、どうするんですか?」 「カカシ先生も仰ってたでしょう? もちろん、やんわりバッサリ、彼を斬って捨てて。 ………終わりです」 思わずカカシは笑みを漏らす。 「それが出来ないから逃げてたクセに」 イルカはバツが悪そうな顔で杯を置いた。 「ま、そーなんですけど………八雲さん、真剣だったでしょう? なんか………逃げない で、ちゃんと『イルカ』として応えなきゃいけないって気になっちゃったんですよ」 カカシはタコの唐揚げを行儀悪く箸に突き刺して、イルカの目の前で振った。 「あーんなクソ真面目なお兄ちゃんに、真正面から好きです、嫁になってくださいって言 われて、断れるんですか? きぱっと。…アンタ、流されやすいんだもん。ついうっかり 『ハイ』とか言いそう」 「…………断るに決まってるでしょ。……あんた以外の男に告られたって嬉しくないです しね、自分には恋人がいるからダメだって、正直に言いますよ」 「え」 タコがボタッと皿の上に落ちた。 「何が『え』なんですか? 大体、嫁に行くのなんか絶対に不可能なんですから、『ハイ』 なんて言うわけがないでしょうが。俺はそんなにうっかりさんに見えますか」 イルカはムッとした顔でししゃもを齧り始めた。カカシは慌てて首を振る。 「いえそのっ………ご、ごめんなさいっ! そういうわけじゃ………でも、イルカせんせ ……あの人に同情的だったし………」 ああ、と呟いたイルカの眉間から、シワが消えた。 「………確かに同情は…していましたね。………だって、気の毒じゃないですか。婚約者 に散々蔑ろにされて。…彼、いい人なのに」 そーですねえ、とカカシも遠くを見るように眼を細める。 「いい人だからこそ、あんな自己中女を嫁にしなくて良かったと思いますよ? オレは。 あのコも、ちょこっと改心したっぽいコト言ってましたけどね、あのワガママ高ビーちゃ んな性格が、そうそう直りますか? 性格ってのは、もって生まれたモンですからね。琥 珀さんが甘やかして育ててしまったってだけが原因じゃないですよ。あのお嬢さんと結婚 したって八雲さんが幸せにはなれるとは思えません。…ま、名主になるのは決定らしいか ら、きっと、これからはいい縁談が降るようにありますよ。………大丈夫。彼は立派な名 主になって、村を支えます」 イルカは薄っすらと笑った。 「ええ。…そうですね。………いい村でした。俺にも多少、縁の在る村だったわけだし… ……これからも、平和な村であって欲しいです。…もう、訪れることもないでしょうが」 イルカの遠い遠い先祖。 今回の任務が無ければ、おそらくは村の存在すら知る事はなかったはずだ。 それでも、その『血』は受け継がれていた。 「あの、山賊どもに俺がさらわれた時―――」 唐突なイルカの言葉に、カカシの顔色がサッと変わった。 帰途、何故彼が誘拐の現場に居合わせなかったかについての事情は、かいつまんで説明し た。イルカは一言『そうだったんですか。大変でしたね』と言っただけで、それについて 責めるような素振りは見せなかったが、やはり―――……… 「イ、イルカ先生……すみません……あ…あれは………」 イルカはカカシの言葉を遮るように片手を挙げた。 「いや、いいんです。………あの時貴方にはあの場に来られない事情があった。俺として は、貴方が世話になった方々の窮状を見捨てるような事をしなかったのが嬉しい。…普通 に考えれば、何があるとも思えない状況だったし、あの場で、大人しく連れ去られる方を 選択したのは俺なのですから、貴方が責任を感じる必要は無いんです。」 カカシは首を振る。 「でも……オレは…アナタを護れ…なかった………」 カカシはイルカの護衛だったのだ。何も出来ないはずの少女を、護るのが任務だった。 誘拐は全くの想定外の事件だったが、だからといって護れなかった言い訳にはならない。 カカシは、事を甘く見過ぎていた。その結果があれだ。 もしも、誘拐されたのがイルカではなく、普通の娘だったら。カカシの判断ミスは、厳罰 ものだった。 誘拐されたのが『同じ任務についている部下』で、人質になったのも任務のうちだと見做 された事と、本来の依頼自体はこなした為、処罰の対象にはならなかったのである。 だが偶然にも『巫女』を庇ってくれる者が―――しかも、同里の者が盗賊達の中にいた、 などという幸運が無ければ、イルカはどうなっていたことか。 『任務』の一言で耐え忍ぶには、あまりにも大きな精神的苦痛を強いられる事態となって いたかもしれないと思うと、同じ任務についていた上司、仲間として以上に、恋人として、 心苦しくて仕方ない。 気にすることは無いのだとイルカ本人に言われても、そう簡単にカカシの頭が上がるもの ではなかった。 項垂れたカカシの指先が、ふわりと温かい感触のものに包まれた。イルカの手だ。 のろのろとカカシが顔を上げると、そこにはいつも通りの優しい微笑があった。 「ちゃんと助けに来てくれたじゃないですか」 「イルカ先生………」 「………結果的に、あれで良かったのだと思っています。………そうじゃなくてね、カカ シ先生。………俺、貴方に告白することがあるんですよ」 は? とカカシは右目を見開いた。思いも寄らない『告白』と言う単語に、瞬間固まる。 まさか、まさか、あの時本当は何かあったのだろうか――― 一秒の間に、カカシの脳裏に様々な『まさか』が駆け巡る。そんなカカシに、イルカはぺ こっと頭を下げた。 「………あの時、俺………何故、貴方は姿を見せないのだろう。何故、繋ぎ一つ寄越さな いのだろう、と不安になったんですよ。もしかしたら、貴方の身に万が一のことが起こっ たのだろうかと、そっちが心配になってしまって。………すみません。何があっても、貴 方を信じなければいけなかったのに。心配すること自体が貴方に対して失礼でした」 申し訳なさそうに小さな声で謝罪するイルカを、驚きの目でカカシは見つめた。 瞬間考えてしまった『まさか』ではなかった事に安堵する一方、謝られてしまった事に困 惑する。 「な……にを言うかと思えば………そ、それこそ謝らなきゃならない事なんかじゃないで しょ! …っていうか………言わなきゃわかならい事なのに………」 「だから、言ったんです。…言わなきゃ、わからないから」 『告白』は、総じてそういうものだ。 言わなければわかるはずもない、しかも、カカシにとっては些細としか思えないような事 をわざわざ告げて謝る男。 こういう男だから、姫神も降りたのかもしれない。 カカシはわざと大仰にため息をついて見せた。 「ああもう、アンタもいい加減こそばゆいコトばっかり言うヒトですねっ! …つまり、 オレの身を案じてくれただけでしょ?」 そして、小さくボソッと付け足した。 「………ありがとう。嬉しいです」 ここが人目の在る居酒屋であることを、カカシは残念に思った。 どちらかの自宅でこうした会話の流れになったなら、ここらでキスのはずなのに。 あ、とカカシは気がついた。 「………オレもイルカ先生には謝らなきゃな……今更なんですけどね。そもそも、こんな 任務が飛び込んできたのは、オレがワガママこいてアナタに女の子の格好させた所為です もんね………」 「いや、それは…任務なら有り得ることだし。写真を撮られて気づかなかった俺のドジで もあるし………」 いいえっ! とカカシはキッパリ首を振る。 「アンタはもう、女体変化禁止です! すっげー可愛くてオレは好きですけど、危険過ぎ だって今回しみじみわかったんです! アンタの女姿って、男がマジになっちゃう雰囲気 があるんですよ!」 うわあ、本当にワガママな………と、イルカは思わず半眼になり―――そして、真面目な 声で言い返した。 「それはもう。俺も女装趣味はありませんので、ご心配なく。必要も無いのにああいう格 好は致しませんから。………貴方の女姿も、それはもう眼福なのですが、俺としましても、 貴方が他の野郎のイヤラシイ視線を集める事は面白くありませんので、そこの所は覚えて おいてくださいね」 カカシの場合は、今のままでも男の視線に晒される危険はあるのだが、それを言うと不機 嫌になりそうなので黙っておく。 「オ、オレだって………別に女装は趣味じゃ………ただ、女姿が有効に作用するようにす る傾向はありますが………」 カカシは恥ずかしそうにボソボソと呟いた。 悲しいかな、同じ男なだけに、『キレイでボンッキュッなおねーさん』が男にもたらす効果 は十分過ぎるほど理解できることで―――だから、それを最大限に利用すべく、脚とか胸 とかちょっと露出気味にしていたかも、という自覚はある。 「………もしも今度任務でその必要があったとしても、自重致します………」 「そうですね。無駄な危険は避けましょう、お互いに」 にっこり笑ってイルカは女装問題にケリをつけた。 「さあ、もういいですね? この酒の席は反省会じゃなくて、慰労の打ち上げなんですか ら。大いに食って、飲みましょう。…でも、飲み過ぎはいけませんよ。帰ったら即、眠れ るなんて思わないでくださいね?」 幸い明日はアカデミーは休みで、受付は遅番。カカシにも任務は入っていない。 イルカの含みのあるセリフに、カカシもニヤリと笑って同意を示した。 「はーい。飲みつぶれるようなもったいない真似はしません〜」 「では、仕切り直しに乾杯といきましょうか」 「そうですね」 改めてお互いの杯に冷酒を満たし、掲げる。 「遠い山で眠る姫神様に」 「神様に恋したご先祖様に」 そして、自分達の夜に。 ―――乾杯。 05/5/5〜07/3/21 (完結) |
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