究極の選択 − 4
そーっと、そーっと。 上忍であれば容易い、抜き足差し足忍び足、であったがカカシは細心の注意を払って足を 運んでいた。 まだ外は暗い。 外についている共同の水道から静かにジョウロに水を汲み、イルカの部屋の前に戻る。 一番端のプランターから水を遣ろうとしたカカシはぎょっとして手を止めた。 プランターとプランターの間に、いつの間にか人が坐っている。 「…おはようございます」 暗がりからカカシを見上げるイルカはのんびりと挨拶した。 カカシはジョウロを持ったまま一瞬身の処し方に戸惑っていたが、反射的に挨拶を返す。 「お、おはようございます……」 「本当に、文字通り早いですねえ……まだ夜明け前ですよ」 「は、はあ……」 正直カカシは怯えていた。 もしかするとこの早朝の水遣りもNGで、イルカの気に触る行為だったのだろうか。 「あの…すみません…オレ…」 ん? とイルカは首を傾げる。 「どうして謝るんです?」 「いえその……余計な事をしてたかなーって……」 「いいえ? 助かってましたよ」 取りあえずイルカは怒っているわけではなさそうなので、ホッと肩の力を抜くカカシ。 「そ…ですか…?」 「ええ。ありがとうございました」 ―――『ました』。 過去形。 終わった事に対する謝辞である。 (…も、もう水なんかやりに来るなって…事…?) どうにもこうにも些細な事に敏感になっているカカシは、そんな小さな言い回しにすら引 っかかってしまう。 「でも今日はこれからで……」 両手で使い古したジョウロを捧げ持ち、困っているカカシに、イルカは内心苦笑した。 「ああ、邪魔ですね、俺。ここにいたら一緒に水をかぶっちゃうか」 よいしょ、とイルカは腰を上げた。 「じゃ、お願いします」 「あ、はい」 カカシは慌ててジョウロを傾けた。しゃわしゃわしゃわ、とプランターに水が掛かる。 カカシがそうやって水を遣っている間、イルカは黙ってその作業を見ていた。 一度では全部のプランターに水が行き届かなかったので、カカシは内心びくつきながらも イルカの前を往復してジョウロに再び水を汲み、水遣り作業を何とか終わらせた。 そそくさとジョウロを定位置に戻したカカシは、イルカの顔もろくに見られないまま「そ れじゃあ、失礼します」と踵を返しかける。 と、それまで黙ってカカシの作業を見守っていたイルカがひょいと動いた。 カカシは手首を捉えられ、気づいた時は玄関の中に引き入れられていたのである。 自分が彼の家の敷居を跨いでいる事に気づき、カカシは驚いたようにイルカを見る。 「イルカ先生……」 イルカの手は、まだカカシの手首を握っていた。その指から伝わる彼の体温に、カカシは 涙が出そうになる。夢にまで見た、イルカの暖かさ。 「……お疲れ様でした」 やっと、イルカは微笑んだ。 「貴方ね、朝っぱらから俺が意味も無くプランターの間に坐っているわけないでしょうが」 「……う……」 「…頑張ったんですね。貴方なりに」 朝早く起きてイルカの家の植木に水を遣る事、戸の前を綺麗に掃いておく事。慰霊碑の掃 除をしているのが誰なのかもイルカは気づいていた。 そして七班の任務では真面目に時間を守り、出来るだけ子供達にも心を砕く事。 たったこれだけの事でも、毎日きっちりとやり遂げるには朝に弱いカカシにとって相当の 努力が要っただろう。 「さぞかし規則正しい生活をなさった事でしょう。それから貴方、禁酒もしてたようです ね。…貴方、酒がなければどうこう、というタイプではないけど、任務明けの風呂上りに ビールを飲むのとかお好きでしたのに。…我慢したんですか」 カカシは驚いた。 まさかイルカが禁酒の事まで知っていたとは。 ああ、とイルカは笑った。 「最近、誘っても全然貴方が飲まない。付き合いが悪くなったってね。…アスマ先生がボ ヤいてましたから」 カカシは首を振った。 「…だって……それくらいしないと…って言うか、もっともっと何かしなきゃいけない気 がしたんですが……でもオレ、あんまり思いつかなくて…何をしたら、オレが反省してる って事になるんだろうって…わかんなくて……」 「そこで、勤勉、勤労奉仕、禁酒、ですか。…なるほど。なかなかです」 カカシはおずおずとイルカを伺う。 「……あの…イルカ先生。後、オレ何やったらいいですか? 何をすれば……」 カカシは突然、イルカに抱き寄せられた。 イルカはカカシの肩に顔を埋め、彼の背中をかき抱く。 「……本当に…っ…貴方ときたら! お馬鹿さんでしたね!」 「すっ…すみませんっ!」 突然の展開に、カカシはイルカの背を抱き返す事も出来ずにどぎまぎとうろたえていた。 「反省しましたかっ!」 「し、しました! これでもかってくらいしました!!」 イルカはカカシの肩から顔を上げず、ただ彼を抱く腕に力を込める。 「……貴方にもう…長いこと触れていなかった…俺の方がもう限界です……カカシ先生… カカ……」 「イルカ先生…」 震える声。強い力で抱き締めてくる男の腕。彼の匂い。 カカシの胸の中がきゅうっと甘酸っぱい痛みでいっぱいになる。 腕をそろりと上げ、イルカの広い背中に触れた。 「……オレは…赦してもらえたんでしょうか……」 返事の代わりは、かみつくようなキスだった。 ここのところずっと早起きしていたカカシは習慣で目が覚めた。 外はまだ暗い。 もぞ、と身動いて起きようとすると、隣から伸びてきた腕に止められた。 「…トイレ?」 「いえ…何となく…起きなきゃいけないような気がして……」 「じゃあ、まだ寝てらっしゃい。…外、雨ですよ」 え? とカカシが耳を澄ますと、なるほど微かに雨音がする。 「……慰霊碑の掃除、今日はいいでしょう。…プランターにも雨はかかるし……」 カカシはもう一度イルカの横に潜り込んだ。 「敵わないな、も〜…慰霊碑にも気づいてたんですか?」 「…そりゃあね。ここのとこ毎日花が替えてありゃ、誰かがやってるな〜ってわかるでし ょ。俺にはそんな事をする人物に心当たりがあっただけです」 乾いてさらさらとした肌が触れ合うのが何とも言えず心地好い。 イルカは気恥ずかしそうな顔をしている恋人の髪を撫でた。 「…その気になれば出来るものですねえ……早寝早起き、真面目な勤務態度。カカシ先生、 これからもずっと続けられます?」 う〜ん、とカカシは唸った。 「……やった方がいいのはわかってますけど……正直、息切れしそうです……アナタに赦 して欲しい一心で頑張りましたが」 クックッとイルカは押し殺した声で笑った。 「なるほどね。でも元々、あんまり朝に強くない貴方がよく頑張りましたよ。…慰霊碑は、 これからは時々俺と一緒に掃除に行けばいい。プランターの水は…ま、これはお願いした 時だけで結構です。…子供等の方に関しては、このまんまがいいんですけどねえ……」 カカシは首を竦める。 「う…まあ、善処します………」 イルカは黙って彼の髪を撫でた。 本来このカカシという男、根は真面目なのだ。 よくよく見れば、忍服にしたところで奇抜な工夫も着崩しもせず、ごく普通にそのまま着 用している。写輪眼を隠す為に斜にした額当てと、人前では絶対に下げようとしない口布 の所為で何となく胡散臭く見えるだけで。そこにこの銀髪が加わり、本人が意図していな い華と怪しさを添えてしまっている。 生活態度がずぼらに見える事もあるが、それもよく考えれば一般的な独身の若い男の暮ら し振りとして取り立てておかしな所は無い。他の男達の日常生活だって、似たり寄ったり だろう。 カカシが取り立てて怠け者なわけでもないと思う。イルカだとて、怠ける時は怠けて髭も 剃らずに寝暮らしている時だってあるのだ。他人の事は言えない。 「……まあ、いいでしょう。やれば出来るってわかったし。……貴方は貴方のままでいれ ばいい……」 イルカの手が。乾いた暖かい掌が、ゆっくりと肌の上を滑っていく感触に、カカシはうっ とりする。 (…ああ、この手だよ……頑張って良かった……オレ、もう二度とバカやらない……!) 「だけど、ひとつだけ訊いていいですか」 カカシはびくっと身を竦ませた。 「……何であんな事したんです? 俺は、何か貴方を不安にさせるような事をしましたか」 カカシは慌てて首を振った。 「いいえっ! アナタの所為じゃないです! オ、オレが勝手に……その、勝手に考え過 ぎちゃって……オレが…バカだったんです…」 何故かあの時、カカシは謂われも無い焦燥感に囚われた。 特に理由も無く、不安という名の袋小路にはまって。 「………本当に、何で…って…実のところ、あの時の事はオレにもよくわからない……自 分の気持ちもよくわからないような気がするのに…イ、イルカ先生は本当にオレなんか好 いてくれてるのかな…って…その、だとしたらどれくらいかな…とか…あ、バカでしょ、 ホント……」 しどろもどろに説明を試みたカカシの言葉はどんどん尻つぼまりになって掻き消えた。 イルカは黙ってその説明を聞いていたが、やがて小さく頷く。 「……わかりました。何となくですけどね。……つまり貴方、何故か突然自信がなくなっ てしまったんですね? その時」 カカシも黙ってイルカの顔を見た。 その通りなのだろう。まさに、カカシは自信を失っていたのだ。 「………ですね、たぶん。…何故かはわかりませんが」 イルカはほんわりと微笑んでみせた。 「俺だって…いや、誰だってね。完璧に自分は相手に好かれてるんだと、愛されてるんだ と100%自信たっぷりの人間は少ないですよ。そんな奴、かえってイヤです、俺は。謙 虚さってもんがないでしょ? たまにはそういう風に悩む方が自分の為にもなりますよ。 …ま、今回の貴方の行動は行き過ぎましたが」 「…はあ……」 「まさか毎日毎回、『俺は貴方を愛してます、貴方は俺を愛してますか』とも言えませんし ね。んな事、こっ恥ずかしくて…今更だし」 「う……まあ、そ…ですね……」 「たまに聞く方がそういう言葉には重みがあるし。…ずっと聞かされてたら慣れちゃうで しょ?」 あ、とカカシは声を上げた。 「そっか…オレ、幸せ慣れしちゃってたのかも…っ…夕べ、イルカ先生が久しぶりに触っ てくれた時、オレ涙出そうでしたもん。…ダメですねえ…アナタのこの手が何よりも欲し かったのに…それが与えられる事に慣れて鈍感になって…挙句、バカな迷路に自分からは まって……」 イルカは黙ってカカシを抱き寄せる。 しばらくふたりは微かな雨音を聞きながら、薄闇の中で抱き合っていた。 ふとカカシは思い出したように少しだけ顔を上げる。 「…そうだ。オレね、その迷路のどんづまりの袋小路でですね、ある『究極の選択』をし ちゃったんですよ」 「……どんな?」 カカシはアハ、と笑った。 「よく言われてるヤツです。『AとBが崖っぷちにぶら下がっています。貴方はどちらの手 を引き上げますか』っての。…あのね、勝手にこんな事言ったら怒られるかもですが、も しもオレとナルトがぶら下がってたらね……きっとアナタは…ナルトを助けるって。オレ、 確信持って言えちゃうなーって思ったんです。…ねえ、これは当たりでしょ?」 イルカは眉を寄せ、数秒考えた。 「…俺としては、両方助けたいですが。…選ばなきゃいけないから、究極の選択…なんで すよね?」 「そうですよ?」 むう、とイルカは唸った。真面目に思案している。 困らせちゃったかな、と思ったカカシが「冗談ですから、そんな真面目に答えをださなく ても…」と言う前に、イルカは口を開いた。 「わかりました。…きっとね、その崖は誰か一人が落ちれば後の二人は助かるんです。だ から、俺は選びます。……俺が落ちる事を」 カカシは目を見開いて飛び起きる。 「却下ーッ! ダメですそんなの! そんなん答えにならないって言うか…いえ、ダメで しょ、アナタはナルトを助けなきゃ」 いいえ、とイルカは首を振る。 「俺は、両方助けるんです。たとえ俺が落ちる事になっても」 そんなんズルイ〜、それならオレが落ちます〜とじたばたしているカカシを乱暴に引っ張 り寄せ、イルカは力一杯抱きしめて囁く。 「―――それが、俺の究極の選択です」 人の気持ちを試してはいけない。 愛を試してみる事などしてはいけない。 してはいけないのだ。 絶対に。 だが恋に惑う愚か者は時にその禁忌を犯し―――そして、運の良い者だけが稀にその応え を得ることが出来るのである。 |
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「お馬鹿カカシ」完。(笑) 甘々イルカカが基本な青菜ですから〜円満仲直りは皆様も予想されていた通りだったことと思います。 カカシもツライけど、イルカもツライ「絶交」。 我慢出来なくなって「赦し」ちゃうイルカ先生はやっぱりまだ青い。 つーか若い。(爆) 結局、元の鞘におさまってメデタシメデタシ。 04/8/05〜8/26 |