やはり、ちょっとまだ海水浴には早かったかもしれない。
波の穏やかな冷たい海面に身を委ね、カカシは視界いっぱいに広がる青空を眺めていた。
ここのところ、カカシが独りで過ごす夜はめっきり減ってきている。
任務のある普段の日でも、夜訪ねて行けばイルカは快く部屋にあげてくれるし、何も言わなくても泊めてくれる。
誘えば彼の方からカカシの部屋に来てくれるし。
休日が重なれば、どちらかの部屋で一日中過ごす事も珍しくない。
カカシにしては珍しく執着している相手だ。
暇さえあれば一緒にいたいと思う。
何もしなくてもいいから一緒にいたい。
彼が傍らにいない夜は、物足りなくて、寂しくて、長い―――
その日もカカシは、午前の授業を終えたイルカを彼の同僚に先を越されないように廊下でつかまえ、昼食に誘う。
「あれ? カカシ先生、今日の任務は?」
「午後からですよ。立派なDランクのお仕事。…ナルトがまた、口尖らせそうな、ね」
任務というより雑用といった方が正しいその仕事は、カカシの方こそうんざりするような内容なのだろう。
イルカは笑って、カカシと連れ立って食堂に向かった。
まだあまり混みあっていないが、後五分もすれば空いている席を捜すのが困難になる。
二人はさっさと窓際の席を確保して、カカシがその場に残り、イルカが二人分の食事を取りに行った。
流石に上忍のカカシに向かって相席を申し込む度胸のある人間はいない。
カカシはのんびりとテーブルに置いてあるポットから二人分の茶など注いで、イルカが帰って来るのを待っていた。
やがてイルカが器用に二人分の盆を片方ずつの手で掲げ持ち、人の間をぬって戻ってきた。
「やあ、すいませんね」
カカシは立ち上がって盆を片方受け取る。
「今日の定食は結構美味そうですよ」
「へえ、かやくご飯に小うどん、サバ味噌ですか。…おお、おひたしまでついて」
カカシはメニューを声に出して羅列してから、小さな声でイルカに囁く。
「…でもきっと、貴方が作ったサバ味噌の方が美味いですよ」
「はは、だとしたら、カカシ先生俺の味に慣らされちゃったんですよ」
その時たまたま彼らの横を通ってしまった運の悪い男は、イルカのセリフを聞いて危うく盆を取り落とす所だった。
何せ、イルカは全然声を落としていなかったから丸聞こえだ。
「イルカの味かー。なるほどねー、うんうん、そーかも」
カカシの方も何ら否定せず笑っている。
得てして、噂などというものはこういう他愛の無いやり取りから発展して一人歩きをしていくものなのだろう。
それがどんな噂になっていったのかは後日の話になる。
カカシ評するところの「まずまずの味」である定食を食べ終え、イルカは懐から手帳を取り出して眺めていた。
「……あの、カカシ先生…」
「はい」
「次の休み…先生のご予定は…?」
確か、次の休みはイルカと同じ日だったはずだ。
予定では、イルカの部屋でずーっと一緒に過ごすとか、天気が良ければデートするとか。
カカシはそんな事しか考えていなかった。
「いや、特に……」
「あのう…カカシ先生、休みに俺んちでメシ食うの多かったからやはり一言お断りする方がいいかと思ったものですから。…俺、次の休みは家にいないんで…」
カカシは内心ほんの少し動揺した。
「あ…そ、そうですか……どこか行くんですか?」
イルカはにっこり微笑んだ。
「海に」
イルカが特に拒まなかったので、カカシは彼にくっついて、海まで来てしまった。
夏ならば一般の海水浴客で賑わうこの浜辺も、まだ人影はない。
「水練ですか〜…」
「ええ。遠泳をやるので。…ここは結構遠浅なんで、アカデミーの幼年クラスでもさほど危険は無いですから。毎年ここなんですが、もしも何か浜辺に変化があったらいけないので、一応下見に来たんですよ」
気持ちのいい風に、イルカの黒い髪がなぶられている。
「…それじゃあ、貴方コレ仕事じゃないですか」
「う〜ん、でも他の日じゃ時間が取れないんで…まあ、仕事と言っても海を見に来るだけですから、手当てなんかもらえませんよ。…すいません、つきあわせてしまって」
カカシは慌てて首を振る。
「いいえ。勝手にくっついて来ちゃったんですから、御気になさらず」
「……どうも中途半端でしょう…? 仕事とはあまり呼べないけど、この季節に遊びに来る場所でもないし。だからお誘いするのもちょっと気が引けちゃって…」
カカシはイルカを安心させるように笑った。
「やーだなー…独りでぼーっとしているより、イルカせんせとご一緒している方がいいに決まっているでしょ?」
「それならいいんですが…」
だが、ふとカカシは不安になる。
イルカは最初から誘ってはこなかった。
(……も、もしかしたらイルカ先生、たまには独りでぼーっとしたかったのかも…)
実の所、カカシは独りでいること自体はさほど苦ではない。
苦ではないのだが―――
イルカといたかったので、一緒に来てしまった。
イルカは嫌な顔一つせず、同行を許してくれたけど。
だが人間、たまには独りで息を抜きたい時もあるのでは―――
(…迷惑だったかも……)
好き勝手やっている自分と違って、イルカは何くれとなく気を遣い、面倒を見てくれる。
それはきっとイルカにとっては自然な行為で、嫌々やっているものではないのは知っているのだが―――
(つ、疲れる時だって…あるよな…)
イルカの優しい微笑みは、カカシを癒してくれる。
でも、イルカにとってのカカシの存在はどういったものだろう。
(い…いかん。またオレらしくもないオトメな泥沼に…ッ…)
カカシはいきなり上着を脱ぎ、砂浜に放った。
続いてサンダルを脱ぎ、ズボンも脱いでしまう。
「カカシ先生?」
「泳いできます」
下着だけで、カカシはずんずんと波に向かって歩いて行った。
「ちょ…っ…カカシ先……」
忍者は着衣のまま真冬の池に飛び込まねばならない事態になる事もある。
多少、今日の水温が低かろうがカカシが心臓麻痺など起こすはずも無い。
カカシの唐突な行動にはもう慣れっこのイルカは苦笑して、それ以上彼を引き止めるのをやめた。
持っているバッグには、飲み物などと一緒にタオルも突っ込んできてある。
イルカは自分も服を脱ぐと、カカシの衣類と一緒にまとめて自分のバッグに突っ込んだ。
最後に髪をくくっていた紐を解いてバッグに結ぶ。
ご丁寧に、紐に自分のチャクラを込めて封印する。盗難避けだ。
これで、イルカ以外の人間はこの荷物に触れられない。
カカシは海に飛び込むと、沖に向かって泳ぎだした。
海で泳ぐのは久し振りだ。
イルカが遠浅だと言っていたが、本当に結構泳いでもまだ足がつく。
ふと空を見上げると、晴れた気持ちのいい空が青く広がっていた。
カカシは力を抜き、仰向けに浮かんでみた。
(…気持ちいい……)
少々水が冷たかったが、カカシは氷の下に潜った事すらある。
それに比べれば、この海の何と優しい事か。
「カカシ先生、泳ぐの速いですねえ」
ふと間近でイルカの声が聞こえた。
「あは、いいんですかあ? 貴方までこんな事しちゃって」
カカシはちゃぷんと身体を起こし、追いついて来たイルカを迎えた。
「えー? だってカカシ先生、気持ち良さそうに泳いで行っちゃって…俺に砂浜で一人で待っていろって言うんですかー? つまんないですよ、それは」
「すいませんね、つい。…久し振りに凪いだ海を見たら、泳いでみたくなっちゃって」
「本当に…今日は波が穏やかです。…水練の日も、こうだといいんですがねえ……波が高いと、人数を把握するのが難しくて。絶対に毎年ナルトみたいなおっちょこちょいがいますし…」
「あの目立ちたがりは何とかなりませんかねえ…」
「…忍ってのは隠密に行動するもんだって教えたつもりなんですけど…もしかして、基本的にあの子の考える忍者って…」
「テレビアニメのヒーローと変わらないのかも」
クスっとイルカは笑った。
「…貴方がいけないんですよ。…初めて間近で眼にした上忍の貴方が、『カッコイイ忍者』だったから。貴方の戦いを見て、あの子はものすごく興奮した。刺激を受けた。…貴方みたいになりたいって、いつも言っています」
「やーだな。オレはヒーロータイプじゃないですよ。いっつもジタバタしちゃって、みっともないもんです。…ヒーローってのは、もっと超然としているものでしょうに」
(…貴方の表情や言葉一つ一つにオタオタしてるんですよ? オレって奴は)
「まあ、超然…ってのはともかく……でも、お強いのは確かだし…」
「……オレは、他に取り得が無いから忍者やってるだけですもん」
カカシはまた仰向けに海面に浮かんだ。
「…死にたくなかったから強さを欲しました。…そこに自分の存在意義もカッコよさも求めた事は無い。……生きているって事は、それだけ恥を重ねる事なのだと……ま、アイツもいずれ悟れればいいんですけどね」
イルカもカカシに倣ってぷかりと海面に浮かんでみた。
「……でも、あいつから見たらカッコ良かったんですよ…貴方は。死線ギリギリで敵と戦い、自らを傷つけても依頼主と仲間を守った貴方が……」
「貴方だって、自分を盾にしてあの子を守ったでしょう…? 貴方のカッコよさがわからんうちは、ナルトはガキなんですよ」
「ははは、俺じゃ目標にならないですって」
イルカが手を伸ばし、カカシの手を探ってきた。
気づいたカカシがイルカの指を握る。
「……すごい…気持ちいいですねえ…空が綺麗だ……」
しばらく無言で二人は海面に漂っていた。
握り合った指先の感触が相手の存在を知らしめてくれて、それだけで互いに安心して海に浮かんでいられる。
「何だか、世界に二人っきりになっちゃったみたいな感じ……」
「カカシ先生と二人っきりならいいですね。……俺、独りって苦手だから……あ、いいトシしてみっともないですね」
カカシはイルカの手を握り直した。
「…独りになりたい時って…イルカ先生はないんですか…?」
「……うー…トイレの中くらいかなあ……」
「……ぷ…っ」
カカシは堪えきれずに大爆笑した。
「ぶわっはっはっは……そ、そりゃそーでしょーけど…はっはっは…」
「笑いましたねーっ! カカシ先生の所為ですからねっ! …独りでいろって言われればいることは出来ますよ。慣れっこですから。でも、最近はずっと貴方がいて下さるじゃないですか。……だから……何だか今は…独り
でいるのが前より寂しく感じるって言うか…」
言ってからイルカはかあっと顔を赤く染めた。
「…何恥ずかしい事言わせるんですか!…もう…」
「……イルカせんせが勝手に言ったんじゃないかー…」
照れ隠しなのかまたばしゃばしゃ泳ぎだしたイルカを追って、カカシも泳ぎだす。
「待ってよ、イルカ先生。…オレ、一緒にいていいんでしょ?」
「トイレの中以外でしたらっっ!!」
気の早い海水浴も悪くない。
イルカに追いついたカカシは、彼の背中にじゃれついた。
冷たい海水の中で、互いの肌の暖かさが気持ち良くて―――
波の上を、この上なく楽しそうなカカシの笑い声が風に乗って渡っていった。
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