「そういえば」
イルカは受付でアスマ隊第十班の報告書をチェックしながらちら、とアスマを見上げた。
「アスマ先生、カカシ先生に盲腸取ってもらったって本当ですか?」
「………あー? 何だよ、いきなり古い話だな。…まあ、そーだな…本当と言えば本当だ
…」
アスマは嫌そうに顔を顰めた。
一方、イルカは感心したように頷いていた。
「あ、やっぱり嘘や冗談じゃなかったんですねえ…へえ、カカシ先生、すごいんだ」
アスマはますます渋面になる。
「…あのな、イルカ……あいつから何を聞いたか知らねえが、それに関しちゃ『殺されか
けた』ってのと同義だからな。…あの野郎、無茶苦茶やりやがって、俺はもう少しで死ぬ
とこだったんだぞ!」
「……はあ? …盲腸で苦しんでいたアスマ先生を、任地で救急手術したんでしょう?
カカシ先生」
「そうとも言えるが、あいつは外科手術の経験も無ければ知識も半端なクセに、クナイで
俺の腹を裂きやがった挙句手ェ突っ込みやがったんだぜ? 普通の人間ならあの世往きだ。
俺が頑丈だったからいいようなものの……あんなムチャなやり方されて死ななかった自分
を誉めたい気分だったぞ……」
見るか? その時の傷、とアスマに凄まれて、イルカは表情を引き攣らせた。
「け、結構です……」
「お前も、悪い事は言わねえから、カカシに傷の手当てさせるのはやめておいた方がいい
ぞ。…ま、赤チン塗る程度ならともかくな、あいつは縫い物は破壊的にヘタだ。雑巾もまとも
に縫えねえ」
雑巾と傷口をいっしょくたにするアスマもアスマだが、とてもわかりやすい表現だった。
「はあ……」
イルカは複雑な表情で夕べの会話を思い出す。
発端は、ベッドの中で戯れにした傷の数えあいだった。
イルカの身体の傷痕を捜していたカカシが、ふと下腹部で手を止めた。
「……イルカ先生、もしかしてまだ盲腸持ってる……?」
右の下腹付近に傷が無い。
「は? ああ、盲腸……そういや、あるでしょうね。取った記憶無いですから」
カカシはガバっと身を起こし、イルカに迫った。
「ダメですよ! ちゃんと取りなさい! 任務中に急に痛んだりしたら困るでしょうが!
盲腸ごときと侮ると死にますよ! アスマなんか任務中に死にかけたんですから。忍びが
盲腸で任務中に死ぬなんて笑いものですよ。……あ、そうだ。なんならオレが取ってあげ
ましょうか。昔、アスマの盲腸オレが取ってやったんですよ。任地で」
そういうカカシの腹には微かに小さな傷痕が残っていた。他の傷痕もあって、あまり目立
たない。
まだ子供の頃に虫垂炎を起こして、切除済みだという。
カカシの言う事も一理在ると思ったイルカだったが、まだ痛みもしない臓器を今すぐ自宅
で切除する事もあるまい、とその場は謝絶した。
カカシは残念そうだったが、今そんな事したら今夜は…いや、当分は『楽しい事』が出来
なくなるけれどそれでもいいかと言ったら諦めてくれたのだ。
「……危ないところだった……」
イルカはそっと冷や汗をぬぐった。
カカシの事は信頼しているし、いざとなったら命を預けられると思う。
だが…クナイで腹を裂かれた挙句、雑巾よりひどい縫い目が腹に出来るのは遠慮したい。
忍びの常として、麻酔の類はあまり効かないのだ。
それでは手術と言うより拷問である。
カカシの事だから、鍼による身体のツボを利用した麻酔の心得もあるに違いないが、彼は
医師ではない。
ふと、イルカはカカシに盲腸取られる前に病院へ行こうかと考えた。
病院でなら、忍びの身体に対して適切な処置が出来る設備があるから、一般人のように痛
みの無い手術が可能なはずだ。
どう考えてもその方が安全だ。
あの有言実行の男が、そう簡単に『盲腸切除』を諦めてくれるとは思えない。
ここら辺りは、さすがに付き合いが長くなってくると察しがつく。
病院行きを勧めず、自分で取ると言い出したところをみると、カカシは『手術』そのもの
にも拘りがありそうだ。
イルカの中で、『盲腸切除病院往きプラン』が急速に現実味を帯びてきた。
受付に依頼客がいないのを幸い、イルカは手帳を引っ張り出してスケジュールを確認する。
「う〜ん……少なくとも三日…は欲しいかな……あ、ダメだ、この週は演習の監督だし…
次の週も目いっぱいかー…」
意外と多忙な中忍、イルカ。
手帳を睨んで唸っていると、ふと誰かが手元を覗き込む。
「どっか行くの? イルカ先生」
「…カ…ッ…」
カカシがいつの間にかにこにこと立っていた。
「旅行ですか?」
「いや……そんな…旅行だなんて……」
イルカはここで己の考えを白状すべきかどうか悩んだ。
カカシに嘘はつきたくない。
だが、病院で盲腸を取る、と言ったらカカシは傷つくかもしれない。
そんなに自分が信用できないのか、と言われたら……
(ああ、でもそれなら後でバレた時の方がまずいよな。もっと傷ついちゃうかもしれない
し……)
忍者にあるまじき正直者、イルカ先生。
「……ちょっと…病院に行こうかと……」
あっさり白状してしまった。
「病院?! イ、イルカ先生どっか悪いんですかっ」
カカシ先生にしては『世間一般的』な反応だな、などと思いながらイルカは首を振った。
「違いますよ。ホラ、カカシ先生が仰ったでしょう? 盲腸。…考えてみれば、確かに大
事な時に炎症起こしたら周りに迷惑かけますから…だから、先に病院で取ってしまうのも
手だと思いまして……」
いきなりカカシがカウンターを飛び越して来てイルカの手を両手で握った。
周りに人がいなくて幸いである。
「オレにやらせて下さい!!」
「ご遠慮申し上げます!!」
イルカにしては遠慮もへったくれもない即答である。
「何でですか?!」
カカシは不満も顕わに詰め寄る。
「……あのねえ、貴方しかやる人間がいないのならともかく、里にはちゃんと病院がある
んですから。…貴方、何でそんなに俺の盲腸取りたいんですか?」
カカシは目を逸らし、恥ずかしそうにぽそっと呟く。
「………だって…イルカ先生の身体を出来るだけ他のヤツに触らせたくない………」
「……………」
イルカは一瞬返す言葉を見つけられず、カカシの顔を見つめてしまった。
カカシはイルカの手を握り、視線を逸らしたまま頬を染める。
「……盲腸なんて、下腹部なんですよ? 股間の近く!! そんなきわどい場所を見ず知
らずの医者に触らせるなんてそんなっ……」
イルカは、これは女房の診察をした産婦人科医にも嫉妬をするタイプだな、と脱力した。
「でも、貴方お医者さんじゃないでしょうが」
「そんなもんっっ」
カカシは不敵な笑みを浮かべる。
「…愛と根性があればなんとかなります!」
イルカの声も低くなる。
「………貴方……もしかして、病院に忍び込んで手術中の医者の動き、コピーする気じゃ
ないでしょうね……」
そう言えば過去、この男は総菜屋のおばちゃんの動きをコピーしてコロッケを作った前科
(?)があるのだ。
「それが一番安全でしょ」
(――――――やっぱり………)
イルカはがっくりと肩を落とした。
「大丈夫。知識はありますよ。前に、人間の身体の構造に興味あるって言ったでしょう?
あ、もしかしてアスマに何か聞いたんですか? あれ、アスマのを取った時はオレもまだ
未熟な時でねえ……今のナルトと変わらん歳の時でしたから、ムチャもやりましたが。あ
れからちゃんと人体構造も勉強しました。今ならもっと上手くやれます」
その時イルカは、子供に腹を裂かれた挙句、傷口を雑巾縫いされたアスマに深く同情した。
「………どうあっても俺の盲腸取りたいんですね……?」
「はい!」
イルカはため息をつきたいのを我慢して、笑みを作った。
「じゃあ、俺が安心してお任せ出来る証を見せて下さったら…そうしたら、お願いします」
「証?」
イルカは頷く。
「雑巾を5枚縫って見せて下さい。それから、ハンカチに木の葉マークを刺繍して下さい
ね。その結果を見てお任せ出来るかどうか判断します。…言っておきますが、結果提出じ
ゃなくて実技ですよ。それから、写輪眼使ったら反則です」
カカシはイルカの言った意味を解して渋い顔をした。
「………あんた、オレの裁縫の腕…疑ってますね……? 手先の器用さをっっ」
「だから、俺を安心させてくださいよ。…嫌ならなさらなくていいんですよ? 俺が病院
行けばいいだけの話なんですから」
カカシはキッと顔を上げ、握り拳を突き出す。
「…やりましょう!!」
―――既に戦闘モードである。
(…そこまでして俺の盲腸を取りたいのか……この際、2、3日死の淵を彷徨おうが、腹
に壮絶な縫い傷が出来ようが、この人の望みを叶えてあげるべきだろうか……)
イルカは一瞬、自分の出した条件を引っ込めて手術に応じてやろうかと考えをフラつかせ、
慌てて我に返った。
ここで甘やかしてはいけない。
「待ってて下さい! オレ、貴方が安心してオレに身を委ねられるように頑張りますか
ら!」
繰り返すが、周りに人がいなくて幸いであった。
カカシはもうイルカの盲腸は自分が取るのだと決心を固めている。
イルカは、自分もいずれ覚悟を決めなければならないだろうな…と、虚ろな心地で嘆息し
た。
カカシはよいしょ、とカウンターを再び飛び越し、「じゃあ、また夜に」と言って戸口に向
かう。
「ふふふ…イルカ先生の盲腸……ホルマリンに浸けて飾っておくのも捨て難いけど…やっ
ぱ、ちゃんと冷凍保存して万一に備えなきゃ……」
何やらドリームに突入しているカカシの呟きに、イルカはぎょっとした。
今、何か妙な事を言わなかったか?
「……ホルマリン…冷凍…?」
イルカは切り取った盲腸なんて、生ゴミ処理してくれて一向に構わないのだ。
「ちょっと! 万一って何ですかっっ」
カカシはちらりと振り返って、目許だけで笑って見せた。
勝手に持ち場を離れられない彼は、視界から消えたカカシを追う事も出来ず茫然とカウン
ターに手をついて佇んでいた。
「……何考えてんだ…あの人……」
やはり付き合いが長くなっても計り知れない部分を持つ恋人に、イルカは頭を抱えた。
その後しばらく、カカシの指はバンソウコウだらけだった。
イルカの盲腸はまだ彼の体内にとどまっている模様である。
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