春。
何とはなしに心浮き立つ季節。
重苦しい冬から脱し、明るいお陽さまがぱーっと辺りを照らすような。
どことなく新鮮で、『心機一転』何かをやろうかとかそんな気分にさせてくれる、優しい風。
そして、春といえば花。
花といえば桜。
桜といえば。
「……お花見」
年に一度のこの行事を、ただただ酒をかっ食らう口実としか見ていないような輩しか周りにいなかったカカシは蕾が膨らみ始めた樹をうっそりと見上げた。
「…花なんか見てないもんなー…あいつらは」
何となく普段の見てくれがぼ――っとしている所為か、カカシは感動が薄そうな人間に見られがちであるが、なかなかどうして、彼は繊細で感受性も強いタイプだった。
(それを表に現すかどうかは別にして。)
カカシとしては、一年に一度しか堪能できない桜の花を、宴会の口実ではなく本当に『見たい』のである。
そう、彼はこの桜という花が好きだったのだ。
特に、満開の桜の花びらが、風が吹くごとに舞い踊るあの風景は何度見ても飽きない。
タイミングを外すと、その光景を見逃すばかりか気づけば葉桜、などという事態になってしまう。
現に、昨年は任務に追われて見そびれた。一昨年もだ。
カカシはぐっと拳を握り締めた。
「………今年こそ…っ!」
見るのだ。
あの美しい光景を。
特に、今回彼には一緒にその光景を楽しんで欲しい人がいる。
「…イルカ先生と一緒に見るんだ…!」
「お花見? あ、アカデミーの教員でやる、アレですか?」
仕事帰り、一杯飲もうと寄った居酒屋でカカシはイルカに水を向けてみた。
「……ああいう情緒の無いのはオレ、嫌いなんですよ。木の下にゴザ敷いて、ろくに花も見ないで酒ばっか飲んで大騒ぎ」
くすくすイルカは笑った。
「お酒はお好きでしょう?」
「…好きですけど。でも、酒はいつでも飲めるでしょ。…桜の花は、一年に一度、ほんの僅かな期間しか咲いていないんですよ。…オレは…ちゃんと花が見たいんです。酔っ払いの芸じゃなくてね」
イルカは頷いて同意を示した。
「……粋な花ですよね。俺も好きです」
そして、カカシが何を望んでいるのか察して、微笑みかけた。
「…見に行きましょうか。……桜」
そこが居酒屋で無かったら。
迷わずカカシはイルカに抱きついていただろう。
ちょうど休養日あたりが見頃だろう、と二人は花見に行く日を決めた。
「……ちょっと遠いですが、近場だとカカシ先生のお嫌いな酔っ払いがたくさんいますからね。穴場だと思いますよ。子連れで行けるような場所ではなさそうですから、静かに桜を鑑賞できるんじゃないでしょうか」
「遠いって言っても、日帰り出来るんでしょ?」
「ええ。…我々の足ならまず、大丈夫です。……でも、カカシ先生。夜桜も見たくないですか?」
カカシはぴょこんと顔を上げた。
「見たいですっっ!」
「じゃ、夕方から出かけて、夜桜を先ず見ましょう。…次の日、明るくなってからたっぷり花見。…如何です?」
「泊まる所、あるんですか?」
イルカはにっこり首を振った。
「ありません。野宿です」
男二人(しかも忍者)、山の中で一夜を明かしたところで何の危険があると言うのか。
カカシも即決でイルカの案に乗った。
「……何か、任務に向かうよーな感じですねー…」
二人とも、背嚢を背負っている上、いつもの忍び装束のまま。
しかも『子連れ』どころか一般人には到底無理な山道を、鍛錬そのままに登っているのだ。
道が無いところは木の枝伝い。
「こりゃ、確かに穴場だ」
他に花見客がいるとしても、せいぜい猿くらいなものだろう。
「カカシ先生。…あの辺り、如何でしょうか。桜の樹も集中しているみたいだし、弁当を広げる平地くらいありそうです」
イルカが指差したのは、まだもう少し距離のある違う尾根の中腹だった。
だが、確かに薄っすらと色づいた白い花霞で覆われたそこは、花見にうってつけのように思える。
「はーい。じゃ、もう一頑張りしますかね。…あまり暗くなると移動しにくくなりますもんね」
任務じゃあるまいし。
夜間山中訓練になるのはごめんだった。
「カカシ先生、何か持ってきました?」
「食い物ですか? んーとね、一応持ってきましたよ」
どちらが何を持って来るなどという細かい打ち合わせをせずに来てしまうのが男同士の悲しい所か。
カカシは背嚢から食料袋を引っ張り出した。
ゆで卵。りんご。スルメ。干し芋。アンパン。
何の脈絡も無い食料がごろごろ出てきた。
「…それと、一応、酒も持ってきちゃいました」
やっぱりね、とイルカは苦笑する。
「カカシ先生が持ってらっしゃると思って、酒は用意しなかったんです」
一方イルカが持って来たのは、これは立派に『弁当』と呼べるものだった。
カカシの好きな梅干とタラコの握り飯。春野菜の煮しめ。甘辛く味をつけたシュウマイ。ソーセージ。菜の花の辛子和え。かまぼこ。卵焼き。
「…うわ、すごい…イルカ先生、オレ感動しちゃいます」
少々弁当箱への詰め方が豪快だったが、食欲を損ねる程ではない。
「だって、やっぱりお花見って言ったら…弁当くらい欲しいかなって…」
カカシはこくこくと頷いた。
「いやー、ありがとうございます。…すっごい、嬉しい…。あ、オレね、一応ランプと敷物も持ってきました。山の中だし、冷えるかもしれないから…」
「ああ、荷物になるのにすいません。…でも、確かにランプあると助かります」
二人は日の沈みかけた山中で『花見』の用意を始めた。
ランプはカカシが器用に木の枝に吊るし、イルカは邪魔な石をどけて土をならし、敷物を敷いて座り心地のいい宴席を作る。
「さて。こんなもんかな。……それにしても本当に見事な桜ですねえ…」
カカシは周囲を見渡して感嘆した。
「空もよく見えないほどの桜なんて…何だか、酔ってしまいそうだ……」
何百本あるかわからない満開の桜。
薄暗くなってきた夕空の下咲き誇る桜は、一種幻想的な雰囲気を醸し出していた。
イルカも改めて周囲を眺め、ホウ、と息をつく。
「綺麗…ですね……」
ありきたりの賛辞だったが、それ以外言いようが無い。
「お腹、空いたでしょう。…桜を見ながら、食事にしましょう」
「あ…はい」
美しい桜に囲まれ、イルカと二人きりで彼の用意してくれた美味しい弁当を食べる。
――― …生きてて良かった……
冗談抜きで感動に震えるカカシ。
「こんないい花見、初めてですよ」
イルカも心から同意した。
「俺もです」
頃合いを見て、カカシは持参した酒の口を開ける。
何気なく持って来たように言ったが、かなり気合を入れて選んできた極上の清酒だ。
酒を選ぶのに手間取って、食べ物の方は慌てて適当に突っ込んで来た、というのが本当の所だった。
綺麗な翡翠の色をした玻璃細工の盃まで用意して。
「綺麗な盃ですねえ、カカシ先生。…それに、美味いです…この酒」
「いい色でしょう。こういう時にこそ使う物だと思いましてね。…桜の色に映えて、酒をいっそう美味くする…」
カカシは盃を掲げ、目を細めて桜の花を透かし見る。
「カカシ先生、結構ロマンチストですね」
カカシはくす、と笑いを漏らした。
「綺麗なものを見れば心まで綺麗になれるとは思いませんけどね…でも、少しは浄化されるような錯覚を起こさせてくれますし。…オレは、綺麗なものが好きですよ。……だから、イルカ
先生も好きなんです」
イルカは面食らった。
彼から見れば、どう考えたってカカシの方が『綺麗』だ。
現に今、杯を重ねて目許を潤ませたカカシは色白の肌がほんのり周りの桜と同じ色に染まりかけていて――何ともいえない『綺麗』な風情になっているのに。
でもたぶん、カカシは自分とは違う視点で物を見ているのだろうな、と推測する。
「俺なんか、綺麗じゃないですけどね。…でも、カカシ先生がそう言ってくれるのは嬉しいです…」
そっと、カカシにくちづける。
『好きです』
と言う代わりに。
二人はどちらともなく互いに手を伸ばし、相手の体温を求めた。
はらはらと、桜の花びらが降って来る。
闇にほのかなランプの灯火と、紺色の夜空を背に咲き誇る桜が白く浮かび上がる。
儚く、幻想的なその世界。
日が昇れば、この光景は一変してしまうのだ。
イルカの背を抱き締めて、カカシはその美しい光景を忘れまいと心に刻みつけた。
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